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殿堂入りしたレイダースの伝説的な元Cジム・オットーが逝去、享年86

2024年05月20日(月) 16:25


ジム・オットー【NFL】

レイダース(現在はラスベガス・レイダース)がフランチャイズを創設してから15シーズンにわたって、毎試合、変わらず姿を現す選手がいた。

それは、一流のセンター(C)であり、素晴らしいチームメイトの典型でもあったジム・オットーだ。プロフットボールの殿堂入りも果たしたオットーが、現地19日(日)に亡くなった。86歳だった。

オットーはキャリアを開始してから終えるまで、レギュラーシーズンに210試合連続で出場するという驚異的な偉業を成し遂げた。その間に、AFLオールスター/プロボウルに12回、オールプロに10回選出されたオットーは、1980年に殿堂入りしている。レイダースがAFLチャンピオンに輝き、第2回スーパーボウルに出場した1967年シーズンに、オットーはシルバー&ブラックにとって初のタイトル獲得に大きく貢献した。

胸に大きく2つのゼロが並び、肩にトレードマークのネックロールをかけたオットーは、まさにオフェンシブラインマンそのものだった。靴用の革のようにタフなオットーは、実績ある勝者となった新しいフランチャイズのリーダーであり、他の殿堂入り選手の栄光への道を切り開いた、揺るぎないチームメイトでもあった。

元ガード(G)ジーン・アップショーと組み、リーグ史上最高のインテリアオフェンシブラインコンビの1つを形成するなど、数々の殿堂入り選手とプレーしたオットー。ジョージ・ブランダやウィリー・ブラウン、フレッド・ビレトニコフ、アート・シェル、ボブ・ブラウン、ケン・ステイブラーなどの殿堂入り選手たちともロースターを共有した。

殿堂入りした元レイダースオーナーの故アル・デイビスは、1980年にオットーが殿堂入りした際に「ジム・オットーは卓越性へのコミットメント、プライド、冷静さ、このフットボールチームの偉大さを体現しただけではなく、10年以上もの間、プロフットボール界でセンターが評価される際の卓越性の基準にもなっていた」と話している。

「彼はプロフェッショナルフットボールの歴史上、最も称えられたオフェンシブラインマンだった。しかし、スタッツは単純に功績の尺度であって、人間性を測るものではない。偉大な人物が、他の人々に偉大になろうという意志を抱かせるというのが本当なら、それだけでジムは偉大な人物と言えるだろう」

キャリアを終えるまで、オットーはどんな理由があっても一度も欠場したことがなかった。先発した試合の数(210試合)は現在もフランチャイズ史上最多であり、オールプロのファーストチームに選出された数(10回)はオフェンシブラインマンとしてNFL史上最多だ。

オットーのタフさは伝説的だが、残念ながら、その体が払った犠牲もまた伝説的だったと言えよう。

オットーは70回近く手術を受け、自伝『Jim Otto: The Pain of Glory(ジム・オットー:ザ・ペイン・オブ・グローリー)』には、医療処置が原因で何度も臨死体験をしたと記している。オットーは2007年に右足を切断した。

2009年に『Bleacher Report(ブリ―チャー・レポート)』の取材に対し、オットーは「フットボールはフットボールだ」とコメント。「それは剣闘士になるようなものだ。リングに上がり、すべての男と戦い、ライオンを敵に回す。フットボール選手であることを、剣闘士であることと同じように考えてきた」

「心の中に“自分の価値を証明したい”と言う自分がいる。たいていの場合、それにはケガが伴う。それこそが、自分が選んだ人生だ。人生に挑戦が必要な人もいるし、ホッケーやラグビーをする人もいる。フットボールは私が自分を証明できる方法だったのだ」

オットーはキャリアを通じて、何度もセンターポジションで最高の選手であることを証明した。

1960年から1974年まで、レイダースで先発センターを務めたのは1人だけであり、その間に――あるいは、それ以降も――このポジションでオットーより活躍した選手はほとんどいない。

【RA】