ピッツバーグ・スティーラーズ
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チームデータ
フランチャイズ創立 | 1933年7月8日 |
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NFL加盟 | 1933年 |
通算成績 | 657勝577敗23分 勝率.532(1933年-2021年) |
スーパーボウル出場 | 8回/ 第9回(1974年)、第10回(1975年)、第13回(1978年)、第14回(1979年)、第30回(1995年)、第40回(2005年)、第43回(2008年)、第45回(2010年) |
スーパーボウル優勝 | 6回/ 第9回(1974年)、第10回(1975年)、第13回(1978年)、第14回(1979年)、第40回(2005年)、第43回(2008年) |
NFLチャンピオン | 0回 |
オーナー | アーサー・J・ルーニー2世 |
GM | オマール・カーン |
ヘッドコーチ | マイク・トムリン |
チームカラー | ブラック、ゴールド |
スタジアム | アクリシュア・スタジアム (ペンシルベニア州ピッツバーグ) 2001年建造/68,400人収容 |
チーム名の由来 | スティーラーズの歴史はアート・ルーニーが1933年に2,500ドルを支払ってピッツバーグのフランチャイズ権を取得し、チームを設立したことに始まる。設立当初のチーム名は同じピッツバーグを本拠とするMLB(米大リーグ)チームから拝借したパイレーツだった。その後、1940年初めに新たなチーム名が公募形式で募集され、選考の結果、製鉄工を意味するスティーラーズが選ばれることとなった。これは当時、ピッツバーグが全米有数の鉄鋼都市だったことが背景にある。 その後、第二次大戦の影響で選手の確保が困難となり1943年にはスティーグルスと呼ばれるイーグルスとの合併、1944年にもカードピッツと呼ばれるシカゴ・カーディナルスとの合併も経験したが、その後はスティーラーズとして存続している。 チーム研究所シーズン1:ピッツバーグ・スティーラーズ チーム研究所シーズン2:ハインツ・フィールド |
過去5シーズンの成績
2021年 | 9勝7敗1分(AFC北地区2位) |
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2020年 | 12勝4敗(AFC北地区1位) |
2019年 | 8勝8敗(AFC北地区2位) |
2018年 | 9勝6敗(AFC北地区2位) |
2017年 | 13勝3敗(AFC北地区1位) |
歴史
鉄鋼都市時代に産声を上げたピッツバーグの古豪
スティーラーズの歴史はアート・ルーニーが1933年に2,500ドルを支払ってピッツバーグのフランチャイズ権を取得し、チームを設立したことに始まる。設立当初のチーム名は同じピッツバーグを本拠とするMLB(米大リーグ)チームから拝借したパイレーツだった。チームカラーは設立時からゴールドとブラック。これはピッツバーグ市の市旗のデザインから発想を得たものである。
その後、1940年初めに新たなチーム名が公募形式で募集され、選考の結果、製鉄工を意味するスティーラーズが選ばれることとなった。これは当時、ピッツバーグが全米有数の鉄鋼都市だったことが背景にある。
ただ、チームはこの年のシーズンまでで24勝62敗5分と低迷を続けており、負債は10万ドル(現在の174万ドル相当)に達していた。それを解消しようとしたルーニーは同年12月、16万ドル(現在の279万ドル相当)でいったんアレクシス・トンプソンにチームを売却する。それでもスティーラーズの継続所有を望むルーニーは直後に友人でイーグルスのオーナー、バート・ベルからイーグルスの株の半分を購入。その上でベルとルーニーはトンプソンにスティーラーズとイーグルスのフランチャイズ権交換を提案したのだ。トンプソンがこれを受け入れたため、チーム名をオリジナルの都市に残したまま、大部分の選手を含むそれぞれのチーム組織が相手都市に移動した。このチームの交換という奇策によってルーニーはピッツバーグでスティーラーズを所有し続けることに成功したのである。
その後、第二次大戦の影響で選手の確保が困難となり1943年にはスティーグルスと呼ばれるイーグルスとの合併、1944年にもカードピッツと呼ばれるシカゴ・カーディナルスとの合併も経験したが、その後はスティーラーズとして存続している。
チームのロゴは設立当初の市旗に描かれたマークを利用したものに始まり、スティーラーズに改名後は鉄鋼産業や製鉄工を描いたものなどが使用された。スティールマークと呼ばれる現在のロゴは、1962年にピッツバーグを拠点とする製鉄会社『USスチール』のマークをヘルメットに使用したことに端を発する。同社のロゴは現在アメリカ鉄鋼研究所が所有権を持つが、描かれている文字は“Steel”だ。対してスティーラーズのロゴは1963年から“Steelers”とされた。スティーラーズのヘルメットはNFLで唯一右側だけにロゴが描かれている。これは当初テストとして施されたものが、好評だったためそのまま維持された格好だ。
初代オーナーのアートは1988年に87歳で死去。これを受けて息子のダンが2代目オーナーに就任した。2008年には所有権はルーニー一族に移され、2003年以降はチームの社長をダンの息子アート・ルーニー2世が務めている。2代目のダンはチームのヘッドコーチやジェネラルマネジャーを募集する際に、最低1名はマイノリティグループ(黒人若しくは少数派民族等)の候補者を面接することを義務付けた“ルーニールール”を設けたことで知られる。2009年から2012年には駐アイルランド大使も務めたダン・ルーニーは2017年4月13日に逝去した。