NFLチーム研究所:Week 31 – オークランド・レイダース
2017年11月25日(土) 11:18NFLチーム研究所トップ > Week 31 – オークランド・レイダース
NFLの対抗リーグとして結成されたAFLは1960年1月、8番目のフランチャイズとしてオークランドを決定した。これは後にバイキングスとなるミネソタがフランチャイズを放棄したためと、ロサンゼルス・チャージャーズのバロン・ヒルトンが西海岸にもう一つチームが設立されなければチャージャーズのフランチャイズを放棄すると宣言したためである。
フランチャイズ獲得後になってチーム設立の動きが本格化する。不動産業を営んでいたチェット・ソーダを中心に地元の政治家や実業家たちによるチーム経営組織が結成され、いよいよチームの創設となった。
チーム名は当初、メトロポリタン・オークランドエリア・フットボールクラブだったが、長すぎることから地元紙が命名コンテストを実施。その結果、選ばれたのはスペイン語で紳士を意味するセニョールズだった。しかし、これがジョークの種にされたため、チームは数週間後、投票で3位だった侵略者や海賊を意味するレイダースに変更している。
設立時のチームカラーはブラック、ホワイト、ゴールドの3色。そのため設立時のチームロゴは十字に組み合わされた2本の前にゴールドのボールがあり、そこにレイダーの頭部のイラストを描いたデザインが使用された。フットボールのヘルメットをかぶり、アイパッチをしたレイダーは俳優ランドルフ・スコットの演出と伝えられている。
その後、1963年にアル・デービスが当時史上最年少の33歳でヘッドコーチ兼ジェネラルマネジャー(GM)に就任。そのデービスがチームカラーをシルバーとブラックに変更した。さらにチームロゴも下半分がシルバーのシールド型の中に2本の剣とレイダーが、上部のブラック部分にザ・オークランド・レイダースの文字が入ったデザインに変えられている。ただ、このデザインが使われたのは1年だけで、翌1964年にはシールド型がブラック一色になり、文字はレイダースのみとなり、レイダーが多くなる一方で剣がシールドの中に収まるデザインに再度変更された。このロゴは現在まで継続して使用されている。
チームのオーナーグループは1961年にエド・マクガー、ウェイン・バリーの2名に集約され、運営されることとなった。そのオーナーシップに波乱が起こったのが1972年である。その中心にいたのが1966年にAFLのコミッショナーとなったものの、自身が反対していたNFLとの合併決定により、わずか3カ月でレイダースに少数オーナー兼GMとして復帰していたデービスだ。デービスの持つチームの株式は10%に過ぎなかったが、バリーがミュンヘン五輪の観戦で渡航していた間に、運営の全権をデービスに委ねる内容で、パートナー契約の改正案を作成した。マクガーがこの契約にサインし、デービスの分を含み2対1の投票結果となり、改正が決定したのである。バリーは改正取り消しを求めて訴訟を起こしたものの、デービスとマクガーが勝訴し、マクガーは株式を売却、デービスが実質的なオーナーとなった。ただし、デービスは自らのことをオーナーとは呼ばず、代表と名乗り続けた。
“Just Win Baby(ジャスト・ウイン、ベイビー/勝てばいいのだ)”のフレーズなどで知られたデービスは1980年、より大きなマーケットを求めてロサンゼルスに移転を計画するが、裁判所から禁止令を出される。しかしながら、これを裁判に持ち込むと1982年に勝訴し、オーナー会議での承認も得て移転を実現させた。
ただ、チームの成績の成績が低迷したこともあってビジネス面でも低迷し、1991年にオークランドに再移転することが発表され、1995年これが実現している。
自らが起用したヘッドコーチたちとの軋轢やドラフト指名の介入など強権的な運営を続けたデービスを批判する声も多かったとはいえ、人権を重視した人物としても知られる。デービスはアフリカ系アメリカ人のヘッドコーチと女性重役を雇用した最初のオーナーであり、ヒスパニック系ヘッドコーチを雇用した2番目のオーナーだった。
そのアル・デービスは2011年に82歳で死去し、息子のマークが筆頭オーナーに就任し、現在に至る。マークと母キャロルでチームの株式の47%を保有しているとのことだ。
オークランドに復帰を歓迎されたものの、近年のレイダースは再び集客に悩み、マーク主導でラスベガスへの移転計画を進め、2017年3月、それが承認された。2020年までに移転する見込みだ。
【渡辺 史敏】
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