数字では測れない力で輝かしいキャリアを築いたドリュー・ブリーズ
2026年08月06日(木) 14:52
30年前のドリュー・ブリーズは、プロフットボール選手になるという夢を思い描くことはなく、むしろ大学では野球をすることになるだろうと考えていた。
ニューオーリンズ・セインツの歴代最多パス記録保持者であるブリーズは『Associated Press(AP通信)』のインタビューで、テキサス州オースティンのウェストレイク高校時代を振り返り、「僕は身長が6フィート(約183cm)で体重は170ポンド(約77kg)だった。フットボールで典型的な体格ではなかったんだ」と話している。
テキサス州の高校のフットボールコーチとして尊敬されていた祖父を持ち、幼い頃からフットボールをプレーしていたブリーズは、ウェストレイク高校のクオーターバック(QB)として州大会優勝も果たしていたが、地元テキサス州の有力な大学フットボールチームから熱心にスカウトされることはなかった。
今週末、47歳のブリーズはオハイオ州カントンでプロフットボールの殿堂入りを果たす。そこで彼のブロンズ像は、測定可能な要素よりも目に見えない能力が勝ることを示す証となるだろう。
ブリーズは体格面で不足していた部分を規律、知性、粘り強さ、直感、リーダーシップで補い、20年にわたるキャリアでリーグ史上2位となるパスヤード(8万0,358ヤード)とタッチダウン数(571回)を記録した。また、セインツ創設60年の歴史で唯一のスーパーボウル制覇も成し遂げている。
セインツでブリーズを指導し、現在デンバー・ブロンコスのヘッドコーチ(HC)を務めているショーン・ペイトンは、情報を素早く処理し、スクリメージラインで調整を行って実行に移すブリーズの能力に驚嘆していた。
カントンでの表彰式でブリーズのプレゼンターに選ばれたペイトンは「彼はAIのようだった。あの処理速度――まさにトップクラスの速さ――は本当に稀有な才能だ。彼は複数のタスクを難なくこなすことができた」と述べている。
ブリーズは投球フォームの調整にも執念を燃やし、専属の投球コーチを雇うほどだったが、その成果はパス精度とタイミングの良さに表れていた。パス成功率は67.7%で歴代3位――NFLで6シーズン以上プレーしたQBの中では1位――にランクインしている。さらに、2018年の74.4%、2019年の74.3%というパス成功率は、NFL史上1位と2位の記録となっている。
失敗をチャンスと捉えていたブリーズは、試練を乗り越えて成功をつかむ才能を発揮。ウイニングドライブ数(53回)では、トム・ブレイディ(58回)やペイトン・マニング(54回)に次いで、ベン・ロスリスバーガーと並んで歴代3位タイとなっている。
ブリーズは2020年シーズン終了後に引退した。その数年前からすでに、NFLの選手やコーチ、幹部たちはブリーズを殿堂入りに値する選手と見なしていた。
ブリーズがセインツに所属していた15シーズンにわたり、ジェネラルマネジャー(GM)を務めていたミッキー・ルーミスは「私たちは皆、彼が5年後に殿堂入りすると思っていた――初回の投票で、疑いの余地もなくね。驚くことではない」と話している。
ハリケーン・カトリーナで甚大な被害を受けたニューオーリンズが、ブリーズがキャリアを脅かすほどのケガから復活を遂げた場所だったという巡り合わせは、ブリーズの物語にさらなる深みを与えた。
「自分がニューオーリンズに行き着いた経緯は、ありえないような展開だった。それでいて、これ以上ないほど完璧なものだった」とブリーズは振り返っている。
その集大成となったのが、2010年2月にマイアミで行われたインディアナポリス・コルツとのスーパーボウルで見せた活躍だ。スーパーボウルMVPに輝いたブリーズは試合の後半にパス20回中19回を成功させて151ヤード、タッチダウン2回と圧巻の成績を残した。試合後、当時1歳だった長男ベイレンを抱きかかえたブリーズが息子とともに舞い落ちる紙吹雪に手を伸ばす姿を捉えた写真は、ニューオーリンズで象徴的な一枚となっている。
ニューオーリンズでは、その勝利が人々の感情を一気に解き放つ熱狂的な祝賀ムードを生み出し、マルディグラに匹敵するほどの熱気と人出にあふれた優勝パレードへとつながった。
セインツはブリーズがプレーしていた15シーズン中9シーズンでプレーオフに進出。しかし、それ以降は3人のヘッドコーチの下で36勝49敗と低迷し、プレーオフ進出も果たせていない。
ブリーズは野球やバスケットボール、サッカー、テニス、クロスカントリーなど、幼い頃からさまざまな競技に取り組んできたことがアスリートとしての成功につながったと語っている。
高校時代、ブリーズは自身が打率と長打力を兼ね備えた左打ちの遊撃手または三塁手として将来を期待される選手になれると考えていた。ブリーズが最も憧れていたアスリートはボストン・レッドソックスの殿堂入り選手であるテッド・ウィリアムズで、その影響からNFLでのキャリアを通じて背番号9を着用していた。
高校3年時にプレーオフの試合で膝の靱帯を断裂したブリーズは、翌春の野球シーズンを欠場することで奨学金を得られる可能性が危うくなることを何よりも心配していた。
「野球こそが、自分が歩みたいと思っていた道だった」と振り返ったブリーズは、叔父のマーティ・エイキンスがクオーターバックとして所属していたテキサス大学や、両親が通っていたテキサスA&M大学からフットボールの奨学金オファーを受けられなかったことに対して不満はなかったとつけ加えている。
テキサス州の有力なフットボールチームで、ブリーズにオファーを出したところは一つもなかった。
ブリーズは「分かっていた。僕たちは州大会で優勝した。僕は5Aの最優秀オフェンス選手にも選ばれた。でも、測定可能な判断材料があまりなかったんだ」と話している。
しかし、ブリーズは当時パデュー大学のヘッドコーチだったジョー・ティラーからオファーを受けた。パス重視のスプレッドオフェンスを採用していたティラーに興味をそそられたブリーズはオファーを受け入れ、フットボールを続けるために故郷から約1,770km離れた地へ移ることを決断した。
そして、パデュー大学でのプレーにより、ブリーズはれっきとしたNFLの有望株へと変貌を遂げた。
「テキサス大学に進んでいたら、リッキー・ウィリアムズにボールを渡していただろう。A&Mに行っていたら、ダンテ・ホールにボールを渡していただろう。パデュー大学に行ったから、1試合で50回もパスを投げたんだ」とブリーズは語っている。
ブリーズは2000年にパデュー大学を同校史上2度目、34年ぶりとなるローズボウル出場へと導いた。また、ハイズマントロフィーの最終候補に選ばれ、ビッグ・テンの攻撃部門年間最優秀選手にも2度目の選出を果たした。
2001年ドラフト2巡目の最初にサンディエゴ・チャージャーズから指名を受けたブリーズは、新人として1試合に出場した。
2003年シーズンには3回ベンチに下げられ、成績は2勝9敗にとどまり、タッチダウンパス(11回)よりもインターセプト(15回)の方が多かった。
そのオフシーズン、当時チャージャーズのヘッドコーチだったマーティ・ショッテンハイマーはブリーズに対し、今でも信頼していると伝えた一方で、2004年ドラフト全体1位指名権をクオーターバックの獲得に充てる予定だと警告した。
「分かっていると思っていたことすべてを見直し、リーダーシップや自分の意思を示す姿勢についても改めて考え直した。そうして、燃え上がるような勢いでチームに戻ったんだ」とブリーズは振り返っている。
チャージャーズはドラフト当日にイーライ・マニングを含めた印象的なトレードに踏み切り、フィリップ・リバースを指名したが、最終的に先発の座をつかんだのはブリーズだった。ブリーズはチームを11勝4敗の成績でプレーオフ進出へ導き、キャリア初のプロボウル選出を果たした。
ブリーズは2005年も好調な成績を残したが、チャージャーズは9勝7敗でプレーオフ進出を逃している。さらに、ブリーズは落ちたボールをリカバーしようと走った際に不自然な形でタックルを受け、投球側の肩に大きな損傷(関節唇断裂および回旋筋腱板の部分断裂)を負った。
ブリーズはフリーエージェント(FA)になる予定だったが、チャージャーズは彼を引きとめようとはしなかった。
2006年1月に手術を受けたブリーズは3月にセインツと契約した時点で、効果的にボールを投げられる段階には至っていなかった。
そんなブリーズにはリスクを取って信じてくれるチームが必要だった。
マイアミ・ドルフィンズもブリーズの獲得を検討していたが、最終的には断念。一方、当時NFL1年目のヘッドコーチだったペイトンと、2005年にサンアントニオへ本拠地を移して3勝13敗に終わったセインツが考えを変えることはなかった。そして、ブリーズは彼らの判断が正しかったことを証明しようと決意していた。
その姿勢は周囲にも伝わっていった。
ブリーズの最後の4シーズンで共にプレーしたセインツのランニングバック(RB)アルビン・カマーラは、ブリーズは「練習でも、試合でも、フィルムルームでも、あらゆる状況を最後の瞬間であるかのように、つまり勝敗を分ける決定的な場面であるかのように捉えていた」と語っている。
「その姿勢はチーム全体に浸透していた」とカマーラはつけ加えた。
また、ペイトンはブリーズに試合でできることの限界を探るように促した。
ペイトンはブリーズに、スクリメージラインでプロテクションの指示を出す機会を与えた――これは通常センター(C)が担当する役割だ。さらに、ペイトンはノーハドルオフェンスを行う際、ブリーズがフィールド上でプレーコールを出すことも認めていた。
「彼は僕に大きな権限を与えてくれた。そのおかげでさらに自信を持てるようになった。そしてもちろん、彼の判断が正しかったと証明し、彼の期待に応えたいという強い原動力もあった」とブリーズはコメントしている。
2007年のプレシーズン――セインツのレジェンドであるリッキー・ジャクソン、ウィリー・ローフ、モーテン・アンダーソンが殿堂入りする前――セインツはホール・オブ・フェイム・ゲームに出場した。
選手たちと殿堂を見学したペイトンは、セインツの選手が1人も選出されていないことに気づいたかと尋ねた。その後、ペイトンは2007年のメンバーの中から、いつかカントンで殿堂に迎えられる選手が1人、あるいは複数人生まれる可能性があると予言した。
今週末、ペイトンから殿堂入りを記念する金色のジャケットを着せられるとき、セインツ史上最も輝かしい実績を残したブリーズは、またしてもかつての恩師の考えが正しかったことを証明することになる。
記事提供:『The Associated Press(AP通信)』
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