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ボルティモア・コルツの名選手トム・マットが82歳で死去

2021年11月04日(木) 17:56


トム・マット【Tony Tomsic via AP】

NFLでの12年のキャリアのすべてをボルティモア・コルツの気骨あるランニングバック(RB)として送った――クオーターバック(QB)の役割を果たした1965年の3試合を除いて――トム・マットが亡くなった。82歳だった。

現地3日(水)に行われたボルティモア・レイブンズの記者会見の中で、ヘッドコーチ(HC)ジョン・ハーボーがマットの死去に触れた。詳細については明かされていない。

「まずはマット一家へ哀悼の意を表したい。トム・マットが亡くなった。われわれには特別なつながりがあった。私の母とトム・マットは一緒に高校に通っていた」とハーボーHCは述べている。

ボルティモアがクリーブランド・ブラウンズを下した1968年のチャンピオンシップゲームでタッチダウン3回を記録したマット。ニューヨーク・ジェッツとQBジョー・ネイマスに敗れた同じシーズンのスーパーボウルでは116ラッシングヤードをマークし、スーパーボウルで初めて100ラッシングヤードを越えた選手となった。1970年には負傷によってシーズンの大部分を欠場しながらも、リングを手にしている。

4.646ラッシングヤード、キャッチ249回で2,869ヤード、タッチダウン57回を数えながらも、マットはそのキャリアの大部分をいずれ殿堂入りするジョニー・ユナイタス、レニー・ムーア、レイモンド・ベリー、ジョン・マッキーらの陰で過ごした。

「私は何でも屋のようなものであり、何のマスターでもなかった。どういった意味でも、スーパースターではなかった」とマットは語っている。

1961年のドラフトでボルティモアから全体7位の指名を受けたマットは、オハイオ州立大学のクオーターバック時代にもパスよりもランで優れた腕前を見せていた、コルツにはQBユナイタスがいたため、マットのNFLでの最初の5シーズンの仕事はハンドオフやショートパスを受けることが中心だった。

しかし、ユナイタスやバックアップQBゲイリー・クオッツォの負傷によって、1965年シーズンの途中にマットが攻撃陣を率いるスキルを見せる機会がやってきた。

41番のジャージーを着て、プレーの一覧を載せたリストバンド――今でもNFLホール・オブ・フェイムに展示されているものの、当時は珍しかったアクセサリー――を使ってハドルでコールを行ったマットは、コルツがシーズン最終戦でラムズを20対17で下すのに一役買った。

1939年6月14日にピッツバーグで生まれたトーマス・ローランド・マット。父はデトロイト・クーガース――のちのレッドウイングス――のホッケー選手だった。

ホッケーを好んでいたマットだが、オハイオ州立大学ではフットボールで称賛を受けた。ランニングバックの方を望んでいたものの、1959年のシーズン開幕戦で先発QBが負傷し、バックアップQBがチームを動かすのに失敗したことから、クオーターバックの役割を担った。

競技生活を終えた後、マットはボルティモア・レイブンズのラジオ放送で統計や戦略等の情報を伝えるアナリストの役目を1996年から2005年に務めている。

レイブンズのオーナーであるスティーブ・ビスシオッティは「トムはこのコミュニティのヒーローの一人だった」と声明で述べ、次のように続けた。

「子どもの頃、コルツのトレーニングキャンプで彼に会ったときにとてもワクワクしたのを覚えている。彼が私たちを受け入れるさまは、本当に特別だった。何年も後になってレイブンズが1996年にボルティモアにやってきたとき、われわれのチームが彼を受け入れるのを見るのは本当に驚くくらい素晴らしかった」

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