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バイキングスでパープル・ピープル・イーターズの一員として活躍したジム・マーシャルが逝去、享年87

2025年06月04日(水) 14:51


パープル・ピープル・イーターズ【AP Photo/File】

元ディフェンシブエンド(DE)ジム・マーシャルのキャリアで最も有名なプレーは、おそらく彼が逆方向に走ったプレーだろう。

しかし、NFLで過ごした約20年間の大半で、マーシャルは正しい方法で物事を進めていた。

NFL史上屈指の鉄人であるマーシャルは、270試合連続で先発出場し、“Purple People Eaters(パープル・ピープル・イーターズ)”の愛称で親しまれたミネソタ・バイキングスの伝説的なディフェンシブラインの中心メンバーとして活躍。バイキングスで4度のスーパーボウル出場を果たした。

バイキングスは現地3日(火)に、レジェンドのマーシャルが長期入院の末に逝去したと発表。87歳だった。

バイキングスのオーナー兼社長マーク・ウィルフ、オーナー兼会長ジギ・ウィルフ、およびウィルフ家オーナーグループは共同声明で「ミネソタ・バイキングスの組織全体がジム・マーシャルの死を悼んでいます」と述べている。

「ミネソタ・バイキングスの歴史において、タフさ、仲間意識、情熱の理想を史上最高のアイアンマンほど体現した選手はいませんでした。チーム創設時からフランチャイズの礎となったキャプテン・ジムが示した無類の耐久力と静かなリーダーシップは、20年間のキャリアを通じて、チームメイトからも対戦相手からも尊敬されていました。ジムは行動で示し、他者が真似るべき最高の模範でした。彼がバイキングスにもたらした影響は、フィールドを去った後も長く続きました。ジムは素晴らしい選手であり人間として、いつまでも忘れられないでしょう。私たちの心は彼の妻スーザンと、ジムの大切な人たちと共にあります」

「プロフットボールのアイアンマン」

「ジム」

1960年から1979年までNFLでプレーしたマーシャルは、クリーブランド・ブラウンズでNFLキャリアをスタートさせた後、19シーズンにわたってバイキングスに所属していた。『Pro Football Reference(プロ・フットボール・レファレンス/PFR)』によると、プロボウルに2度選出された経歴を持つマーシャルは、282試合に出場し、非公式ながら130.5回のサックを記録したという。最も記憶に残る――そして物議を醸した――プレーは、1964年10月25日にサンフランシスコ・49ers戦で自陣エンドゾーンまで66ヤードを走ったいわゆる“逆走”だった。このプレーはセーフティとなったものの、バイキングスは27対22で勝利を収めている。

『NFL Research(NFLリサーチ)』によると、マーシャルの連続出場数(282試合)は歴代3位の記録であり、パンター(P)ジェフ・フィーグルス(352試合)と殿堂入りしたクオーターバック(QB)ブレット・ファーブ(299試合)に次ぐものだという。連続先発出場数(270試合)はディフェンス選手として歴代最多の記録であり、バイキングスでの19シーズンは、1チームで過ごした期間として歴代5位の記録となっている。

バイキングスは妻のスーザンの代理としてマーシャルの逝去を発表。追悼式は後日実施される予定だ。

オハイオ州立大学の殿堂入りメンバーであるマーシャルは、大学を早期に退学し、1959年にカナディアン・フットボール・リーグ(CFL)でプレーした。

その後、名前が書かれた紙を箱から引く形で行われた1960年のAFLドラフトでヒューストン・オイラーズに選ばれたマーシャルは、同年のNFLドラフトの全体44位でブラウンズに指名され、ルーキーシーズンには12試合に出場し、7試合で先発を務めた。マーシャルはそのシーズンを終えた後にバイキングスにトレードされており、それは、バイキングスがリーグに参戦した初年度のことだった。

メトロポリタン・スタジアムでの厳しい冬の試合に耐え抜いたマーシャルは、1960年代から1970年代のバイキングスを形作ったタフさと頑強さの象徴とも言える存在だった。また、NFLの新設チームが常勝軍団へと成長する過程を体現する存在でもあった。

1968年から1978年の11シーズンで、マーシャルとバイキングスはプレーオフに10回進出し、NFC(ナショナル・フットボール・カンファレンス)中地区制覇を10回成し遂げ、4度のスーパーボウル出場を果たした。残念ながら、いずれの試合も勝利にはつながらず、それぞれカンザスシティ・チーフス(第4回スーパーボウル)、マイアミ・ドルフィンズ(第8回)、ピッツバーグ・スティーラーズ(第9回)、オークランド・レイダース(第11回)に敗れた。

マーシャルはその過程で、NFLの歴史の中でも特に高く評価され、印象的なニックネームを持つ守備ユニットの一員として知られるようになった。

マーシャルは殿堂入りを果たしたアラン・ペイジ、カール・エラー、ゲイリー・ラーセンとともに強力なディフェンシブフロントを形成。彼らは自身を“パープル・ギャング”と称していたが、最もよく知られている愛称は“パープル・ピープル・イーターズ”だった。このグループには後に、ラーセンの代わりにダグ・サザーランドが加わった。

PFRによれば、1968年と1969年に2年連続でプロボウルに選出されたマーシャルは、その2シーズンで非公式ながら計24回のサックを記録したとのこと。また、マーシャルは4シーズンで2ケタのサックを記録し、キャリア通算で30回のファンブルリカバリーをマークしたという。

1960年に23歳でキャリアを開始したマーシャルは、1979年シーズンを終えた後、42歳で現役を引退した。

当時のバイキングスがNFLやNFCで覇権を築いていく中で、過酷なミネソタの冬にも耐え得るタフさを備えたマーシャルは耐え抜き、そして輝きを放っていた。

【RA】