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第4回スーパーボウルでバイキングスのQBを務めたジョー・カップが85歳で死去

2023年05月10日(水) 12:04


ジョー・カップ【NFL】

第4回スーパーボウルでミネソタ・バイキングスのクオーターバック(QB)を務めたジョー・カップが現地8日(月)に85歳で亡くなったと、母校のカリフォルニア大学が『Associated Press(AP通信)』に伝えている。

同大学によれば、カップはアルツハイマー病を患っていたという。

ナショナルフットボールリーグ(NFL)とカナディアン・フットボール・リーグ(CFL)の両方でシグナルコーラーとして活躍したカップは、12シーズンにおよぶプロフットボールのキャリアの中でも1960年代後半にバイキングスの選手として3シーズンにわたって活躍したことで知られる。

「ジョー・カップのような選手たちがミネソタ・バイキングスのフランチャイズの礎を築いた」とミネソタ・バイキングスのオーナー兼社長であるマーク・ウィルフは火曜日に発表した声明の中で述べている。「ジョーのタフネスと競争心は同時代のバイキングスのチームを特徴づけるものであり、その粘り強さとリーダーシップはチームメイトからも対戦相手からも尊敬を集めていた。われわれはジョーの家族、友人、そして世界中のバイキングスファンとともにジョーの死を悼む」

「伝説のリーダー。寂しくなるよ、ジョー」

カップはカリフォルニア大学でハイズマントロフィーの投票で5位に入り、1958年にゴールデン・ベアーズにとって最後となるローズボウル出場に導いたのち、1959年にワシントンにドラフトされた。ところが、要求した契約条件が認められなかったことでカップはCFLでプレーすることを決意する。

カップはカナダでカルガリー・スタンピーダーズとBCライオンズで8年間活躍してから1967年にバイキングスに入団し、この年はほとんどの試合に先発したものの、フランチャイズは負け越しのシーズンに終わっている。カップは1968年にバイキングスを初めてのプレーオフ出場に導き、翌シーズンに大躍進を遂げた。

1969年にカップは1,726ヤード、タッチダウン19回、インターセプト13回というキャリアハイの記録を打ち立て、バイキングスは12勝1敗でシーズンを終えた結果、カップは最初で最後となるプロボウル選出を果たした。シーズン第2週のボルティモア・コルツ戦で成功させた7回のタッチダウンパスは、NFL内同率トップの単試合記録として未だに破られていない。当時31歳だったカップはロサンゼルス・ラムズのQBローマン・ゲイブリエルに次いでMVP投票で2位になった。カップはバイキングス初のNFLタイトルとスーパーボウル出場に向けて、ポストシーズンでゲイブリエル率いるラムズとクリーブランド・ブラウンズを制している。

第4回スーパーボウルでカップとバイキングスはカンザスシティ・チーフスに24対7で敗れ、カップは25回中16回のパスを成功させて183ヤードと2回のピックを記録した。

1970年に異例の形でフリーエージェント(FA)となったカップはシーズン開幕の2週間後にボストン・ペイトリオッツと契約したが、このAFC(アメリカン・フットボール・カンファレンス)チームはリーグ最低の2勝12敗の成績に終わっている。ペイトリオッツが1971年のドラフトでQBジム・プランケットを全体1位で指名したことに加え、契約上のトラブルもあったためにカップはわずか1年でチームを去り、それから二度とプロフットボールでプレーすることはなかった。

カップは先発QBとして4年間のNFLキャリアで5,911パスヤード、タッチダウン40回、インターセプト64回、24勝21敗3分の成績を収めている。

選手生活を終えたカップは『The Longest Yard(ロンゲスト・ヤード)』に出演するなど俳優として数年間活動してから、1982年にヘッドコーチ(HC)としてカリフォルニア大学に戻っている。5シーズンにわたって指揮を執ったカップはゴールデン・ベアーズを20勝34敗1分の成績に導き、最初のシーズンで年間最優秀コーチ賞を獲得。のちにラインバッカー(LB)としてスーパーボウルを優勝し、現在はワシントン・コマンダースのヘッドコーチを務めるロン・リベラらを指導した。カップの在任中に最も注目されたのは、1982年にスタンフォード大学に勝利した時の“The Play(ザ・プレー)”だった。

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