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TD後のスパイクの生みの親として知られるジャイアンツ元WRジョーンズが82歳で死去

2023年06月16日(金) 15:19


ホーマー・ジョーンズ【NFL】

ニューヨーク・ジャイアンツ史上最も活躍したワイドレシーバー(WR)の一人で、タッチダウン後にフットボールをスパイクした最初の選手とされるホーマー・ジョーンズが死去した。82歳だった。

ジョーンズが住んでいた出身地のテキサス州ピッツバーグで、娘のラカロール・ジョーンズ・ニッケルベリーさんが『KLTV』に死去を伝えたことで、ジャイアンツはその事実を確認したという。娘の話によれば、ジョーンズは肺がんとの闘病の末に現地14日(水)に亡くなったとのことだ。

「ホーマー・ジョーンズはスピードとパワーを兼ね備えた特別な選手で、ボールに触れるたびに相手にとっては得点の脅威となった」とジャイアンツの社長兼最高経営責任者のジョン・マーラは述べている。

「タッチダウンを決めた後にエンドゾーンでボールをスパイクした最初の選手の一人、もしくはその生みの親で、彼はすぐにファンから愛されるようになった。気さくでフレンドリーな性格で、チームメイトやコーチからも好かれていたのを覚えている」

ジョーンズは1963年NFLドラフトの20巡目でジャイアンツに指名されたが、その時すでにアメリカンフットボールリーグのヒューストン・オイラーズと契約していた。トレーニングキャンプで膝を痛めたことでオイラーズからリリースされたジョーンズは、ジャイアンツに電話をかけてトライアウトを申し込み、ジャイアンツは彼にニューヨーク行きのバスのチケットを送った。

テキサスサザン大学で100ヤード走を9.3秒で走ったジョーンズを見たヘッドコーチ(HC)のアリー・シャーマンは、1963年のシーズンと1964年の途中まで彼をジャイアンツのタクシースクワッド(当時のプラクティススクワッド)に置いた。

ジャイアンツでの6シーズンでジョーンズはパスキャッチ214回で4,835ヤードとタッチダウン35回をマーク。ジョーンズのレシーブ数はジャイアンツ史上25位、ヤード数は6位、35回のタッチダウンは同率6位につけている。

ジョーンズは1967年シーズンに最も活躍し、キャリアハイとなるレシーブ49回、1,209ヤード(レシーブあたり平均24.7ヤード)、リーグ最多のタッチダウン13回を積み上げ、この年に2年連続で出場したプロボウルのデビューを飾っている。

ジョーンズは1970年にクリーブランド・ブラウンズで最後のシーズンを過ごし、通算でレシーブ224回、4,986ヤード、平均22.26ヤードを記録。これは200回以上のキャッチを記録したレシーバーとして、いまだにNFL史上最高の成績となっている。1959年から1966年にかけてピッツバーグ・スティーラーズとダラス・カウボーイズでプレーしたバディ・ダイヤルが平均20.83ヤードで2位となる。

1965年12月13日、ジョーンズはワシントン・レッドスキンズとの試合でジャイアンツを27対10の勝利に導き、72ヤードと74ヤードのタッチダウンパスを含む3本のパスをキャッチして182ヤードを獲得した。キャッチ1回あたり平均60.67ヤードという記録は、1960年11月20日のオイラーズ対デンバー・ブロンコスの試合で同じ数字を記録したビル・グローマンと並び、リーグ史上2番目に高い平均ヤード数(最低レシーブ数3回)となる。セントルイス・ラムズのトリー・ホルトが2000年9月24日のアトランタ・ファルコンズ戦で平均63.0ヤード(3回のキャッチで189ヤード)を記録している。

1970年1月、ジョーンズはランニングバック(RB)ロン・ジョンソンおよびディフェンシブラインマン(DL)ジム・カニキとのトレードでブラウンズへ向かった。ブラウンズでのデビュー戦は史上初のマンデーナイト戦であり、ジョーンズは31対21でブラウンズが勝利した試合で最もビッグなプレーを披露している。後半のキックオフで、94ヤードのリターンタッチダウンを決めたのだ。

そのシーズンは膝の負傷でキャッチ10回にとどまり、ほどなくしてジョーンズは29歳で引退。その後、テキサスへと戻った。

ニッケルベリーさんによれば、ジョーンズには6人の子どもがいたという。


記事提供:『The Associated Press(AP通信)』


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