史上初のキャッチ100回を達成した元ブロンコスWRライオネル・テイラーが逝去、享年89
2025年08月14日(木) 15:45
2024年シーズンには10人の選手が100回以上のキャッチを記録した。
オフェンス主導の試合展開やシーズン延長の影響で、キャッチ100回という大台はリーグ屈指の選手たちにとって毎年目指すべき目標となっている。
しかし、ライオネル・テイラーが登場するまではそうではなかった。
ワイドレシーバー(WR)としてプレーしていたテイラーは、1961年にアメリカン・フットボール・リーグ(AFL)のデンバー・ブロンコスでキャッチ100回を達成し、AFLおよびNFLで初めてその大台に到達した選手となった。
ブロンコスが現地13日(水)、オールプロに4度選出された経歴を持ち、NFLのアシスタントコーチとしても先駆的な役割を果たしたテイラーが、8月6日に89歳で亡くなったと発表した。
選手としての輝かしいキャリアを経て、テイラーは長年にわたってアシスタントコーチを務めた。ピッツバーグ・スティーラーズでレシーバーコーチとしてキャリアをスタートさせたテイラーは、殿堂入りしたリン・スワンやジョン・スタルワースの指導にあたり、2つのスーパーボウルリングを獲得。また、1980年から1981年にはロサンゼルス・ラムズの攻撃コーディネーター(OC)を務め、NFL初の黒人攻撃コーディネーターとして先駆的存在にもなった。
テイラーは1959年から1968年までのキャリアでシカゴ・ベアーズ、ブロンコス、ヒューストン・オイラーズでプレーした。特にブロンコスでは真価を発揮し、フランチャイズ創設初年度の1960年から1966年までチームに所属していた。テイラーはAFLオールスターに3度選出され、キャッチ100回を達成した記念すべき1961年を含めて5回、キャッチ数でリーグトップに輝いた。テイラーは1984年に設立されたブロンコス・リング・オブ・フェイムの初代メンバーの1人でもある。
1961年シーズンには、14試合に出場して1,176ヤードを記録し、当時のシーズン最多キャッチ記録を樹立した。
1960年から1965年にかけてAFL屈指の選手であり続けたテイラーは、年平均でキャッチ84.7回、1,070.7ヤード、タッチダウン7.2回を記録している。
キャリア通算では、キャッチ567回で7,195ヤード、タッチダウン45回を記録した。
「NFL史上初の黒人コーディネーター」
「AFL、@Broncos、スティーラーズのレジェンドであるライオネル・テイラーのフットボール人生を振り返る。彼はカントンで殿堂入りを果たすかもしれない」
The first Black coordinator in NFL History. 🙌
Looking back on the football life of AFL, @Broncos and Steelers legend Lionel Taylor, who may just find his way into Canton.
#NFLFilmsPresents pic.twitter.com/8BiyeoZtW5— NFL Films (@NFLFilms) November 15, 2024
1968年シーズン終了後にオイラーズの一員として現役を退いた後、テイラーは1970年にスティーラーズのWRコーチに就任。スティーラーズを第9回および第10回スーパーボウル制覇に導いたスタッフの一員となった。その後、ラムズでも同じ役職を務め、1980年シーズンに攻撃コーディネーターに昇格した。
その後、カレッジレベルの指導者となったテイラーは、1984年から1988年にかけてテキサスサザン大学でヘッドコーチ(HC)を務めた。1989年にはNFLに復帰し、クリーブランド・ブラウンズのタイトエンド(TE)コーチに就任した。
ブラウンズでの在籍期間を終えた後はワールドリーグ・オブ・アメリカンフットボール(後のNFLヨーロッパ)に参加。ロンドン/イングランド・モナークスの攻撃コーディネーターを務め、最終的にはヘッドコーチに就任した。
2024年、テイラーはプロフットボールの殿堂による第3回アワード・オブ・エクセレンスで、受賞者15人のうちの1人に選ばれている。
10年間にわたって傑出した選手として活躍したテイラーは、その後の約30年間、指導者としてフットボールに携わり、消えることのない功績を残した。
【RA】