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ジャイアンツの元HCジム・ファッセルが71歳で死去

2021年06月09日(水) 17:39


ニューヨーク・ジャイアンツ【NFL】

ニューヨーク・ジャイアンツの元ヘッドコーチ(HC)ジム・ファッセルがこの世を去った。

現地7日(月)の夜、息子のジョンが『Los Angeles Times(ロサンゼルス・タイムズ)』のサム・ファーマーに対し、父親が亡くなったことを報告した。

同紙によると、ラスベガスに住んでいた元HCは月曜日に胸の痛みを訴えて地元の病院に連れていかれたという。そこで鎮静状態に置かれていたが、心臓発作のために亡くなったとジョンは述べている。

「非常につらいことではあるが、昨日、父が亡くなったことを発表しなくてはならない。この大変な時期に多くの思いや祈りを寄せていただいていることに感謝する」とダラス・カウボーイズのスペシャルチームコーディネーターを務めるジョンは声明を出した。「父は、フットボールの長年のファンであり、フットボール界の顔として人々の記憶に残るだろうが、彼のレガシーはわれわれの心の中では偉大な父、そして祖父として永遠に生き続ける。彼はこの世界に妻のキティ、5人の子どもたちとその配偶者、そして幸せで健康な16人の孫を残していった。父さん、愛しているよ」

ファッセルはジャイアンツのHCとなった1年目の1997年に“AP通信年間最優秀コーチ”に選ばれた。3年後の2000年には、シーズン半ばに“このチームは必ずプレーオフに行く”という有名なスピーチを行い、彼の率いるジャイアンツはその言葉通りにNFCチャンピオンに輝く。しかし、第35回スーパーボウルでボルティモア・レイブンズに敗れてしまった。ジャイアンツHCとしての7シーズンで、彼は3度のプレーオフ進出を決め、レギュラーシーズンで58勝53敗1分の記録を残した。

「マーラ家とティッシュ家、そして組織全体を代表して、ファッセル家とジムの友人たちに哀悼の意を表します」とジャイアンツの共同オーナー、ジョン・マーラは声明を出した。「ジムの訃報に接し、皆悲しみに暮れています。ジムは優れた人物であり、われわれのコーチとして残した記録が全てを物語っています。彼はチーム運営によってその名を知らしめ、9.11の悲劇の後は消防士や他の家族の支援に力を入れていました。選手たちはジムを尊敬し、彼と彼のコーチングスタッフのためにプレーすることを楽しんでいました。わがチームを7年間導いてくれたことに感謝しています」

ファッセルの下で7シーズンをニューヨークでプレーし、殿堂入りを果たしているディフェンシブ・エンド(DE)のマイケル・ストレイハンは声明で次のように述べた。「私はキャリア形成期の大部分においてジム・ファッセルをHCとして仰いだ。彼は真に選手のことを考えるコーチだった。一人一人をより良いフットボール選手にするにはどうすればよいかを理解し、ベストな状態へと押し上げてくれる。それでいて、アスリートである以上に人として気遣ってくれていることを感じさせてくれた。彼がテーブルの中央にチップを押し出し、われわれを第35回スーパーボウルへと連れていってくれたことを決して忘れない。彼が私とジャイアンツという組織に与えた影響は永遠に忘れられることはないだろう」

ファッセルのNFLコーチとしてのキャリアは1991年、ビル・パーセルズにアシスタントとして起用されたところから始まった。ジャイアンツが第25回スーパーボウルで優勝した後、パーセルズはファッセルを攻撃コーディネーター(OC)に昇格させた。デンバー・ブロンコスとアリゾナ・カーディナルスでOCを務めた後、ファッセルは1997年シーズンを前にジャイアンツのHCに就任する。ニューヨークでの任期を終えた後はボルティモア・レイブンズでOCを務めたが、2006年半ばに解任された。

ファッセルはその後2009年にユナイテッド・フットボール・リーグ(現在は消滅)でHCとして復帰した。ラスベガス・ロコモーティブスを率いた最初の2シーズンで2年連続UFLチャンピオンに輝き、2012年にリーグが活動を停止するまで上位に名を連ねた。

コーチとしての長いキャリアの前には短いながらもクオーターバック(QB)としてプレーしていた。シカゴ・ベアーズから7巡目指名を受けたファッセルは1972年にヒューストン・オイラーズとサンディエゴ・チャージャーズにも在籍し、その後カナディアン・フットボール・リーグのトロント・アルゴノーツに移籍した。選手としてのキャリアは消滅したワールド・フットボール・リーグのザ・ハワイアンズで終了し、カレッジフットボールのフルタイムコーチに転向した。

1949年にカリフォルニア州アナハイムで生まれたファッセルは、71年の生涯を終えた。

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