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革新をもたらした元ブロンコスOLコーチ、アレックス・ギブスが80歳で逝去

2021年07月13日(火) 14:27


元デンバー・ブロンコスOLコンサルタントのアレックス・ギブス【AP Photo/Eric Bakke】

現地12日(月)、デンバー・ブロンコスとNFLは大きな影響力を持つ人物を失った。長年アシスタントコーチを務めてきたアレックス・ギブスが脳卒中による合併症で亡くなったことをチームが発表している。

攻撃面の革新者だったギブスは1984年に大学の世界からNFLに飛び込み、ブロンコスでオフェンシブライン(OL)コーチを務め、次第に1990年代のブロンコスの台頭の力となっていった。

ブロンコスは月曜日に出した声明で「OLコーチとしてデンバー・ブロンコスとナショナル・フットボール・リーグに広く大きな影響を与えたアレックス・ギブスが天に召され、われわれは深く悲しんでいる」と述べた。

「ブロンコスで過ごした14年間で、ギブスコーチはそのブロッキングスキームと傑出した指導能力によってこのリーグにいつまでも続くレガシーを残した。彼は3つの年代にわたってブロンコスがスーパーボウルに進出するのを助ける――その中にはワールドチャンピオンシップ連覇も含まれている――傍ら、NFLの歴史上で最も偉大なアシスタントコーチの一人として評判を築いていった」

「われわれの心はアレックスの妻であるトリナさんやギブス家の皆さん、そして、アレックスが指導してきた多くの選手たちや仲間のコーチたちの元にある」

ギブスの指導の下、ブロンコスはクオーターバック(QB)ジョン・エルウェイの殿堂級のキャリアの終盤に連続してスーパーボウルでの栄光を手にしている。ギブスは最初のブロンコス時代にあたる1980年代に形成し始めたアイデアを実装し、ブロッカーたちに新しい方向性を示して従来の枠組みを破壊した。

ギブスはオフェンシブラインをその要員とともに再考し、当時に典型的だった体格の大きく、速度が遅いOLから、より機敏でギブスの描く図を実行可能なグループへと変貌させた。従来のトラップやダブルチームに頼る代わりに、ブロンコスはゾーンスキームへ移行し、流動的なブロッキングによって相手ディフェンス陣を惑わせ、ランニングバック(RB)テレル・デービスをNFLのMVPが1回、ロンバルディトロフィ獲得が1回、そしてカントンの仲間入りという栄光に導いた。

新たなランブロッキングによってブロンコスのラッシャーたちは1995年から2000年まで、毎年1,000ヤード以上を稼いでいる。ギブスとヘッドコーチ(HC)マイク・シャナハンにより、デービスとオランディス・ゲイリー、マイク・アンダーソンのそれぞれがこの期間に1,000ヤード越えを達成。デービスが4年連続でそれを果たした後、新世紀に入ってゲイリーとアンダーソンがその後を継いでいる。このトリオに続いてクリントン・ポーティスが2002年と2003年に1,000ヤード以上を記録。これはギブスが2度目にブロンコスでコーチを務めた時代の最後の2年だった。

ギブスは2004年から2006年をアトランタで過ごし、2008年はヒューストンへ。2010年にシアトルへと移っている。2013年には再びブロンコスで1シーズンを送った。

ギブスが戻ってきたブロンコス攻撃陣は再び力を手にする。ただし、今回力を発揮したのは空中戦だった。ペイトン・マニングは単一シーズンのタッチダウンパス記録、およびパッシングヤード記録を2013年に打ち立てている。この年、ブロンコスはスーパーボウルまでコマを進め、シアトル・シーホークスに敗れた。また、このシーズンのQBサックは20回にとどまっている。

ギブスはロサンゼルス・レイダース(1988年から1989年)、サンディエゴ・チャージャーズ(1990年から1991年)、インディアナポリス・コルツ(1992年)、カンザスシティ・チーフス(1993年から1994年)にも在籍した。

ブロンコスの革新的な攻撃スキームについてはシャナハンHCの功績とされる部分が大きいが、その全体にギブスの影響があり、現在のNFLのオフェンスにも痕跡が見られる。OLがファーストレベルからセカンドレベルへと弧を描き、RBがその後ろでハンドオフを受け取って駆けだしていくスペースを見い出すとき、NFLファンはアレックス・ギブスの功績を思い出すことだろう。

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