第4ダウン残り5ヤードの決断の非を認めるブロンコスHCハケット
2022年09月14日(水) 14:44現地12日(月)、頭を悩ませるマネジメントと決断の時を経て、デンバー・ブロンコスの新人ヘッドコーチ(HC)ナサニエル・ハケットはクオーターバック(QB)ラッセル・ウィルソンの手から取り上げたボールをキッカー(K)ブランドン・マクマナスの足元に置いた。
第4ダウン残り5ヤードでマクマナスの足が放った、決勝点となっていたかもしれない64ヤードのフィールドゴールは失敗に終わり、シアトル・シーホークスに対する17対16での敗北が決まった。
マクマナスの決勝点が幻のものとなってから24時間足らずで、ハケットHCは自分の選択が正しくなかったことを認めている。
「振り返って見れば、間違いなくあそこでは攻めるべきだった」とハケットHCは火曜日に行われた記者会見の冒頭で述べた。
「振り返って“当然、あそこでは行くべきだった。われわれはフィールドゴールをミスした”と言うこともある。だが、あの状況では、われわれにはプランがあった。われわれは(46ヤードラインが)基準だと分かっていた」
ハケットは月曜日と同様に、ブロンコスの最終ドライブのプランはフィールドゴールの範囲まで進めることだったと説明。それはシーホークス側46ヤードラインまで広がっていた。この範囲は試合が始まる前に、マクマナスがどこからなら快適にキックできるかを伝えたときに設定されている。ハケットHCの目により大きな問題だと映ったのは、このドライブ序盤にランニングバック(RB)ジャボンテ・ウィリアムズがブロンコス側49ヤードラインからの第1ダウン残り10ヤードで4ヤードをロストしたプレーだった。このプレーによって、マクナマスのアテンプトの前には第3ダウン残り14ヤードという状況になっていた。
「私はその前のプレーのことでもっと苦しんでいた。ヤードを失ったときのことだ」とハケットHCはコメントしている。
「同じプレーをコールして、もっとヤードを獲得できていたら素晴らしかった。(ウィルソンが)ジャボンテに投げ、ジャボンテが動き、われわれが期待していたのよりずっと遠くに進む。それを第4ダウンでやろうとしていた。そのときに、基準点にいた。開始前にわれわれがすべて定めた基準点だ。われわれは46ヤードラインが自分たちの望んでいた場所だと言った。そこにたどり着いたがゆえに、ブランドンに任せるのかを決断しなければならなかった。そして、われわれはそうした。うまくいかなかった。最悪だ。だがそういうこともある」
マクナマスのアテンプトと同じかそれ以上の距離で決まったキックは、NFL史上2つしかない。ジャスティン・タッカーの66ヤードからのキックと、マット・プレイターの64ヤードからのキックだ。それにもかかわらず、ハケットHCは終始キックがプランであり、46ヤードラインまできたら決勝点に挑戦することに不安はなかったと強調した。
「後から見て、フィールドゴールに失敗すれば、攻めていればよかったと思うものだろう。逆に挑戦してうまくいかなければ、彼にチャンスを与えていれば良かったと思うものだ」
フィールドゴールの前に、ウィリアムズが9ヤードのキャッチではなく8ヤードの獲得にとどまっていれば、1ヤードの差でプランは変わっていただろう。マクマナスが示した範囲を踏まえ、ウィリアムズがその地点まで進んでいなければ、ボールは第4ダウンにもウィルソンの手にあったはずだ。
「ジャボンテが1ヤード少なければ、われわれはそれに挑戦していた」とハケットHCは言う。
とは言え、将来の殿堂入りが見込まれるクオーターバックとの残り5ヤードではなく、NFL史上2番目に長いフィールドゴールを試みたという決断には困惑が生じる。
また、ブロンコスはマクマナスの準備のために時計を止めるまで、最初のタイムアウトを取らなかった。それもプランの一部だったという。
「彼らに時間を残さないようにしたかった」とハケットHCは言う。
その前の攻撃ドライブではゴール前8ヤードラインからの第4ダウンでさらなる攻撃を試みる代わりに、マクマナスが26ヤードのフィールドゴールを成功させて、ブロンコスとの17対13という得点差を17対16にまで縮めていた。ブロンコスがレッドゾーンまで攻め込むのは連続3回目だったが、その中で得点できたのはこのときだけだった。
その前の2つのドライブではブロンコスはいずれもシーホークス側1ヤードラインでファンブルによってポゼッションを失っている。『NFL Research(NFLリサーチ)』によれば、1991年以来、一つの試合中に相手側1ヤードラインで複数のファンブルを喫したチームはない。しかし、この混乱の夜には、それが連続で起こったのだ。
「自分にとってもっと大きなフラストレーションになっているのは、あのレッドゾーンのことだ。われわれには本当に多くのチャンスがあった。ああいう(終わりに)なるべきではなかった」とハケットHCは言う。
しかし、それがブロンコスの最後のオフェンシブプレーだった。
「結局、私の責任だ。私がその決断を下した。それがわれわれのプランであり、われわれが言ったことで、われわれが乗り越えなければならなかったヤードだった」とハケットHCは話した。
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