コラム

王者になれなかった貴公子アンドリュー・ラックの早すぎる引退

2019年09月02日(月) 05:07

インディアナポリス・コルツのアンドリュー・ラック【AP Photo/AJ Mast】

アンドリュー・ラックの突然の引退はこのオフシーズン最大の衝撃と言ってもいい。NFLでエリートクオーターバック(QB)となることを運命づけられ、キャリア序盤はそのレールを順調に走っていたかに見えた若きパサーも繰り返されるケガの苦しみには勝てず、わずか7年間のプロフットボール生活にピリオドを打った。

誰もが早すぎるとその引退を惜しむ。しかし、肩、ふくらはぎ、足首と、この4年ほどは常に痛みと戦っていたというからその苦しみはいかばかりだったか。

それだけではない。彼の戦列離脱はそのままコルツの戦績に大きく影響を及ぼす。それは彼が全試合に欠場した2017年に4勝12敗と、ペイトン・マニングが不在だった2011年に次ぐワーストの成績に終わり、復活した昨年は10勝6敗で4年ぶりのプレーオフ復帰を果たしたことからも明らかだ。そのプレッシャーも29歳の青年を苦しめたに違いない。

思えば常にスター選手としての期待を背負わされたフットボール人生だった。ヒューストン・オイラーズで活躍したオリバー・ラックの息子という血筋の良さ。その血統を証明するかのように高校時代から頭角を現し、やがて名門スタンフォード大学に進学する。

プロトタイプのポケットパサーで、フィジカルを武器とするモバイル系QBが席巻するカレッジフットボールの中で最もプロに近い逸材と評価されてきた。

スタンフォード大学で先発2年目を終えた2010年シーズン後に翌年のNFLドラフトにエントリーする権利を得たが大学に残ることを決断した。これに大きく落胆したNFLチームも多かったはずだ。

ラックの場合はプロになるか否かではなく、いつNFLに入るかが常に話題だった。それが実現したのは2012年のこと。先述のようにマニングが肩の故障で2011年シーズンを全休したため、コルツはNFL最低の成績に終わり、ドラフト全体1位指名権を得た。これもラックにとっては運命的だった。

コルツは4月のドラフトを前にマニングの解雇を決断する。ジム・アーゼイ球団オーナーが記者発表で涙ながらにマニングに別れを告げたが、彼の心中ではすでにラックをいの一番で指名してポスト“マニング”に据える算段が整っていたはずだ。

ラックにとってもコルツは最適の「就職先」だっただろう。マニングによってAFCのエリートチームになり、その後継者となることは将来を嘱望されたラックにとってこれ以上はないおぜん立てだった。ジョニー・ユナイタス、ジム・ハーボウ、マニングというスターQBの系譜に連なるのもファンにとっては想像しうる最高のシナリオだったに違いない。

ラックのNFL入りが決まった瞬間、いずれはスーパーボウルで優勝すると多くの人が予想しただろう。それは期待を超えた確信であったかもしれない。かつてのマニングがそうであったように。

コルツ入団後のラックは期待通りに成長を遂げた。ルーキーシーズンに11勝5敗でプレーオフ出場。初戦で敗退したものの、翌年はディビジョナルプレーオフに進み、さらに2014年はAFC決勝でペイトリオッツと対戦した。この頃まではラックと新生コルツの成長は順調であり、2015年シーズンにリーグ優勝の最有力候補に挙げられたのも当然のことだった。

しかし、QBの命である肩の故障がその順風満帆なレールを狂わせてしまった。故障と手術、リハビリと再発、別の個所の新たな故障。その繰り返しがラックにフットボール断念を決断させることになった。

今、ラックの心に去来するものは痛みから解放された安堵なのか、フットボールへの未練なのか。いずれにせよ、たぐいまれな能力を秘めていたはずの若いQBが若くしてその道を断念せざるを得なかったのは残念だ。

いけざわ・ひろし

生沢 浩
1965年 北海道生まれ
ジャパンタイムズ運動部部長。上智大学でフットボールのプレイ経験がある。『アメリカンフットボールマガジン』、『タッチダウンPro』などに寄稿。NHK衛星放送および日本テレビ系CSチャンネルG+のNFL解説者。著書に『よくわかるアメリカンフットボール』(実業之日本社刊)、訳書に『NFLに学べ フットボール強化書』(ベースボールマガジン社刊)がある。日本人初のPro Football Writers Association of America会員。