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ベアーズに人生を捧げたオーナーのバージニア・ハラス・マッカスキーが102歳で死去

2025年02月07日(金) 13:33


バージニア・ハラス・マッカスキー【AP Photo/Charles Rex Arbogast】

1975年、シカゴのソルジャー・フィールドのボックス席で、バージニア・ハラス・マッカスキーはNFLチームのオーナーとはどういうものかを間近で目にした。その質素なボックス席には彼女の夫と兄、そして当時のシカゴ・ベアーズのジェネラルマネージャー(GM)ジム・フィンクス、さらにNFLの創設者の1人であり、父親でもあるジョージ・ハラスが同席していた。

「私たちはみんな、試合のすべてを本気で受け止めていました」とマッカスキーは2016年のインタビューで語っている。

「初めて彼らと一緒に観戦したとき、驚くべきことではないはずなのに驚きました。父がすべてのプレー、すべてのヤードに完全に没頭していたからです。ちょっとしたことにも強く感情を揺さぶられ、本当に熱くなっていました。私には見えないものが、父にはたくさん見えていたのです」

「その夜、家に帰って父のことを本気で心配しました。80歳になってもこれほどまでに入れ込んでいるなんて、と。でも、次の試合を迎える前の週末までには気付いたのです。それはとても素晴らしいことなのだと。80歳になっても、何かにこれほど夢中になれるなんて、素晴らしいことだと思いました」

その8年後に伝説的な父親が亡くなり、マッカスキーはチームを引き継いだ。後年、彼女は自らも父親と同じように、人生の最期までベアーズに夢中になっていたと語っている。

現地6日(木)、NFLのオーナー陣の中でも女性として稀有な存在であったマッカスキーが、102歳で死去した。これにより、リーグ創成期から続く彼女の歴史は幕を閉じた。1925年、幼いマッカスキーは父親がレッド・グレンジと契約したのを機に開催し始めた、各地で試合を行う巡回ツアーに同行。NFLが軌道に乗るきっかけとなったこのツアーを幼少期に経験したマッカスキーは、後に元NFLコミッショナーのポール・タグリアブーが“NFLのファーストレディ”と紹介する存在へと成長していった。

「私たち悲しみに暮れていますが、バージニア・ハラス・マッカスキーが信念を貫き、充実した人生を歩んだこと、そして今は最愛の人と共にいることを思うと、心が慰められます」と、家族はチームが木曜日に発表した声明の中で述べた。

「彼女は40年間にわたりベアーズを導き、そのすべての経営判断を、選手、コーチ、スタッフ、そしてファンにとって最善のものとすることを常に心がけていました」

晩年まで、マッカスキーは変わらぬ日課を続けていた。シカゴ近郊の質素な自宅で早朝に起床し、ミサに出席。ベアーズの試合には必ず足を運び、結果に一喜一憂していた。2014年シーズンにチームが5勝11敗と低迷し、息子のジョージ・マッカスキーがヘッドコーチとジェネラルマネージャーを解任した際、彼は「母はかなり怒っている」と発言し、大きな話題となった。当時、フランチャイズの実務運営を担っていたのは、1999年から2022年の引退まで社長を務めたテッド・フィリップスだった。彼はハラス家以外で初めて社長に就任した人物であり、その後任として2023年からはケビン・ウォーレンがチームの社長兼CEOを務めている。

NFL内の立場とは裏腹に、マッカスキーは11人の子どもを育てながら、公の場に出ることは少なく、控えめな姿勢を貫いていた。チームの実権の80%をにぎりながらも、60年間連れ添った故夫エドや息子たちをベアーズ運営の前面に立たせていた。2016年に『The Athletic(ジ・アスレチック)』のインタビューに応じた際、マッカスキーは「キリストの再臨まで」わが一族がベアーズのオーナーであり続けると述べている。その生涯は、最初からベアーズとNFLとともにあった。マッカスキーは身内の若い世代にも積極的に試合観戦を勧め、NFLにおけるベアーズの役割と責任を理解するよう促していた。

NFLコミッショナーのロジャー・グッデルは、木曜日に発表した声明の中で次のように語った。

「シカゴ・ベアーズの母であり、NFL創設者ジョージ・ハラスの娘であるバージニア・ハラス・マッカスキーは、高潔さ、品位、そして人間性の象徴として、その名を残した」

「信念、家族、そしてフットボール——この順番で彼女の生きる指針は定められていた。そして、“常に正しいことをする”というシンプルな信念を貫いていた。父親が創設したベアーズは、彼女にとってこの上なく大切な存在であり、彼女が献身と情熱をもって家業を受け継いだことを、父親も誇りに思っていることだろう。われわれの思いと祈りは、マッカスキー家、ハラス家、そして世界中のベアーズファンとともにある」

マッカスキーは、ジョージ・ハラスの長女として1923年にシカゴで生まれた。彼女の誕生の3年前に、ハラスはオハイオ州カントンの自動車販売店で開かれた会議に出席し、アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション(APFA)の設立に立ち会っている。このリーグはその後、1922年にナショナル・フットボール・リーグ(NFL)へと発展。NFL創成期、ベアーズは経営難に陥り、一家も大恐慌の影響で苦しい時代を過ごした。

「父は生き残るために持てるすべてを注ぎ込んでいました。そして、母はそのすべてを支える素晴らしいパートナーでした」と、マッカスキーは2016年に両親について語っている。

「母は限られたものの中でやりくりをしていました。できなかったこともたくさんありました。『Chicago Tribune(シカゴ・トリビューン)』が主催していた“Golden Gloves(ゴールデン・グローブズ)”のボクシング大会に行くことさえも——今になって思えば、あれはおそらく無料チケットだったのでしょう。でも、当時はそのボクシングの試合に行くことが、一大イベントのように感じていました」

移民の子として生まれたハラスは、子どもたちに感謝の気持ちを持つことの大切さを常に教えていた。マッカスキーが父親との思い出として最も大切にしていたのは、シーズン終了後に開催されたOBパーティー、そして時には優勝パーティーだった。母親もまた、そうしたパーティーを楽しんでいたという。それは長いシーズンの終わりとともに、夫が家庭に戻ってくることを意味していたからだ。その頃のベアーズは何度も成功を収めていた。“パパ・ベアー”の愛称で親しまれたハラスは“Monsters of the Midway(モンスターズ・オブ・ザ・ミッドウェイ)”と呼ばれるチームを築き上げ、1932年から1943年にかけて8回NFLチャンピオンシップに進出し、そのうち5回で優勝を飾った。

実のところ、マッカスキーがチームを継ぐ予定はなかった。本来、その役割を担うはずだったのは、弟のジョージ・“マグス”・ハラス・ジュニアだった。ハラス・ジュニアは30年近くにわたりフロントオフィスで働き、フランチャイズを率いるために育成されていた。しかし、1979年のクリスマス直前に心臓発作で急逝。享年54だった。その4年後の1983年、父ジョージ・シニアがバージニアにみとられ、60歳となっていたマッカスキーがチームを引き継ぐこととなった。当時のチームは、1982年に引退を撤回したハラス・シニアが、ベアーズに関わる最後の重要な決断のひとつとして、かつてベアーズのタイトエンド(TE)として活躍したマイク・ディトカをヘッドコーチに招聘したことにより、強豪チームとしての基盤を固めたところだった。

息子のマイケルが社長を務める中、マッカスキーはオーナーとして、1985年シーズンの終わりにベアーズが第20回スーパーボウルを制覇する瞬間を見届けた。しかし、そのわずか2年後、一族の内紛が公の場に持ち出され、大きな騒動へと発展。弟ジョージ・ジュニアの死後、ベアーズの経営が再編されたことで、マッカスキー家のチーム支配が強まったと、彼の子どもたちが異議を唱えたのだ。シカゴ・トリビューンによれば、裁判の過程でマッカスキー自身が証言台に立ち、姪からの尋問を受ける場面もあったという。訴訟の一環として、ジョージ・ジュニアの遺体が掘り起こされ、彼の妻と子どもたちの要請によって検死が行われた。法廷での証言の中でマッカスキーは、創設者の血を引く者たちが今後もチームを維持できるかどうか、懸念を抱いていることを示唆していた。

「父は、家族がチームの所有権を守ることが重要だと考えていました。それが再編の大きな理由のひとつでした」と、当時マッカスキーはシカゴ・トリビューンに語っている。

フランチャイズにとって唯一のスーパーボウル制覇に続き、ベアーズはディトカの指揮の下で5度プレーオフに進出したが、その後の成功は散発的なものにとどまった。晩年のマッカスキーは、父親と同じように敗北が心に重くのしかかることを認めていた。それでも、忘れられない瞬間がもう一度訪れた。2007年1月21日、ベアーズはニューオーリンズ・セインツを破り、NFC(ナショナル・フットボール・カンファレンス)チャンピオンシップのタイトルを獲得。スーパーボウル進出を決めた。マッカスキーは、父親の名を冠したNFCチャンピオンシップトロフィーを手にし、「これまでで最も幸せな日」と語った。

過去10年のチームの方向性に不満を抱いていたことを息子に伝えた以外、マッカスキーはチームやリーグの運営に深く関与することはなかった。それでも、ベアーズという存在、そしてプロスポーツ界で最も影響力のある一族の女家長としての立場は、彼女の人生のすべてを形作っていた。

ジョージ・シニアの死後、マッカスキーは父親の遺品を整理している最中に、彼がどれほど多くの人々を支援していたかを示すメモを見つけた。それは、金銭的な援助であったり、一本の電話であったり、時には一通の手紙だった。

「私はすべてのことを、父がやっていたように行おうと心がけています」とマッカスキーは2016年に語っている。

「誠実であること、そしてこの役割がどれほど大きな責任を伴うものかを理解することが大切です。今の時代、多くの特権や恩恵があることは分かっていますが、その一方で、私たちは経営に細心の注意を払い、家族はもちろん、多くの人々のことも大切にしなければなりません」

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