長年コルツのオーナーを務めたジム・アーセイが逝去、享年65
2025年05月22日(木) 16:24
ジム・アーセイは殿堂入りしたオーナーであるアート・ルーニー、ウェリントン・マーラ、ラマー・ハントを“NFLの叔父たち”と呼んでいた。しかし同時に、アーセイのインディアナポリスのオフィスは、ジェリー・ガルシアのギターと、ジャック・ケルアックによるカウンターカルチャーの古典『On the Road(邦題:路上)』のオリジナル原稿巻物が飾られている、フットボール界で唯一の場所でもある。アーセイはコルツの運営において安定と忍耐を重んじていたが、私生活はしばしば波乱に満ちていた。そして、ヒッピー的な考えを持つNFLオーナーであると同時に、古き良き時代を思わせる存在でもあった。
現地21日(水)、アーセイが65歳で亡くなった。アーセイはかつて父親が真夜中に本拠地をボルティモアから移転させたことで悪名高かったフランチャイズに、平静――そしてチャンピオンシップ――をもたらした人物だ。
コルツは水曜日に発表した声明で「愛するオーナー兼CEOのジム・アーセイが本日午後、眠りの中で安らかに息を引き取りましたことを深い悲しみとともにご報告いたします」と述べている。
「ジムのインディアナポリス・コルツに対する献身と情熱、寛大な心、地域社会への献身、そして何よりも家族への愛情は、比類のないものでした。この深い悲しみの中、娘のカーリー・アーセイ・ゴードン、ケイシー・フォイト、カレン・ジャクソン、そしてご家族の皆さまに、衷心より哀悼の意を表します」
「ジムの最も大切な思い出のいくつかは、若い頃にボルティモアでトレーニングキャンプに携わりながら、選手やコーチ、スタッフと家族のような関係を築いていた時期に生まれました。彼はコルツがインディアナポリスに移転した1984年にチーム史上最年少のジェネラルマネジャー(GM)に就任するまで、あらゆる部門で働いていました。1997年に単独オーナーとなってからは、コルツを数多くの地区優勝に導き、街に初めてのスーパーボウル優勝をもたらしました。ジムはNFLそのものだけでなく、その歴史や伝統、理念に対する愛情と敬意を抱いており、そのことが、50年以上にわたってリーグの支え手としての役割を果たす原動力となりました」
「ジムの寛大さは、インディアナポリスの街中はもちろん、インディアナ州全体、さらには全米各地でも感じられます。彼は慈善活動を日々の務めとし、数え切れないほどの団体や個人がより良い生活を送れるように、決してためらうことなく支援を行ってきました。音楽はジムが情熱を捧げてきたものの1つであり、自身のバンドやコレクションを世界中の人々と共有できることは彼に大きな喜びをもたらしました。端的に言えば、彼は世界をより良い場所にしたいと願い、その信念が揺らぐことは決してありませんでした。ジムは家族、コルツ組織、そして世界中のファンから深く惜しまれる存在となるでしょう。そして、私たちは彼の温かい心と独自の精神に励まされ続けています」
アーセイは最近、健康問題に悩まされており、2024年1月には重度の呼吸器疾患で治療を受けていた。また、昨年3月には、過去7年間で26回目の手術を終えた後に順調だと語っていた。
2024年シーズンは、1984年に25歳でNFL最年少のジェネラルマネジャーに就任したアーセイにとって、クラブで過ごす38シーズン目だった。アーセイは1997年にチームの筆頭オーナーとなり、コルツはその在任中にプレーオフ進出16回、AFC(アメリカン・フットボール・カンファレンス)チャンピオンシップ制覇2回、スーパーボウル制覇1回を達成している。
NFLコミッショナーのロジャー・グッデルは声明で「本日、ジム・アーセイの訃報に接し、深い悲しみに包まれています」と述べた。
「ジムは友人であり、家族、フットボール、コルツ、そしてインディアナポリスのコミュニティに深く献身した人物でした。彼は人生とキャリアをナショナル・フットボール・リーグに捧げてきました。10代の頃にコルツのボールボーイとしてキャリアを歩み始め、約30年前にコルツのリーダーシップを引き継ぐ前に組織のあらゆるポジションを経験しました。ジム率いるコルツはスーパーボウル制覇を果たし、別のスーパーボウルの開催地となったほか、ルーカス・オイル・スタジアムの建設も実現させました」
「リーグ内において、ジムは立法委員会の積極的な委員長となり、財務委員会のメンバーでもありました。彼はコルツの選手、コーチ、スタッフに対して誠実さ、情熱、思いやりをもってリーダーシップを発揮し、メンタルヘルス支援への勇敢な取り組みは、永く記憶に残る遺産となるでしょう。フットボール以外の分野では、才能豊かな音楽家であると同時に、歴史的かつ音楽的な作品を収集し、その素晴らしいコレクションを国中の人々と共有していました」
「NFL全体を代表し、ジムのご息女およびご家族、ならびにNFL中のご友人の皆さまに、心よりお悔やみ申し上げます」
元クオーターバック(QB)ペイトン・マニングの大きな貢献もあり、アーセイ率いるコルツはインディアナ州をバスケットボールの牙城からフットボールの盛んな地域へと変貌させた。ジムは若い頃、父ロバート・アーセイの激しい言動に対して謝罪することが多く、16歳のときにはプレシーズンで敗北した直後に父親が解雇したコーチに謝罪するために、チームのバスに乗り込んだこともある。ロバートは板金や換気設備の事業で財を成し、ジムが12歳のときにコルツを買収した。
ジム・アーセイは2005年に『New York Times(ニューヨーク・タイムズ)』のインタビューで「自分にとって最良の師は時折、間違った方法を教えてくれるものだ」と語っている。
とはいえ、アーセイは父のもとで働きながら多くのことを学んだ。見習い期間には、当時コルツの従業員だったアーニー・アコルシに指導されることも多かった。アーセイはチケット販売から人事評価に至るまであらゆる業務に精通し、チームがボルティモアからインディアナポリスに移転した直後にはジェネラルマネジャーにも就任。この経験は、今日のオーナーの中では珍しいほどの幅広いフットボール知識を彼にもたらし、1997年にチームの指揮をとるようになった際の最初の決断の1つとしてビル・ポリアンをジェネラルマネジャーとして迎え入れた際に大いに役立った。これにより、ペイトン・マニングの長期にわたる活躍によって特徴づけられる新たな時代が幕を開けた。
アコルシはアーセイがフランチャイズのためにジェネラルマネジャーの職を辞するという自己認識と利他的な心を持っていたと評価している。しかし、フットボールの意思決定から距離を置いた後も、アーセイはチームに深く関わり、多くの選手たちと個人的に親しい関係を保ち続けた。首のケガでキャリアが危ぶまれたマニングを放出する際には、アンドリュー・ラックをドラフトで獲得するチャンスが目前に迫る中で、悩み続けた1シーズンを経て涙を流しながらその決断を下した。その瞬間は、冷静なビジネスマンであると同時に、人間関係を大切にするアーセイの本質を象徴していた。
アーセイは2005年にニューヨーク・タイムズのインタビューでこう語っている。
「自分は本当に真面目なビジネスマンだと思っているが、大きなビジネスでも大きな心を持つことができると考えている。ジョン・レノンのような人々から受けた影響もあって、人はいろいろな側面を持つことができると思っている。ジョン・レノンやピート・タウンゼント、ボブ・ディランといった人たちはその信念で大きな影響を与えてくれた。特にレノンは、平和運動において限界まで突き進んだ人物だった」
コルツはマニングと、後にトニー・ダンジーHCの下で、並外れた安定感を維持し、その結果としてビジネス面でも成功を収めた。マニングがインディアナポリスで先発を務めた13シーズンの間に、コルツは11回も10勝以上を挙げ、2度のスーパーボウル出場(うち1回で優勝)を達成。その過程で、コルツはNFLで最も観客動員数の多いチームの1つとなり、主に公的資金で賄われた新スタジアムを完成させている。その後、スーパーボウルの開催も果たした。
しかしアーセイは、マニングを擁しながらもロンバルディトロフィーを一度しか獲得できなかったことを受け、コルツは実際の能力よりも下回っていたと考えていた。そして、マニングが負傷し、チームが低迷した2011年に、アーセイは大幅な刷新を決意。ダンジーの後任ジム・コールドウェルとポリアンは解雇され、マニングも放出された。この時期はアーセイにとって非常に苦しい期間であり、マニングとの関係も悪化したが、冷却期間を経て最終的には和解に至った。
その間、アーセイはオーナーとしてバランスを保つことの難しさについて思いを巡らせていた。
2012年1月、アーセイはニューヨーク・タイムズのインタビューで「結局のところは常に、偉大になることを目指そうとしているんだ」とコメント。
「深い愛情と並外れた忠誠心はあるが、シーズンが始まってロッカールームに入ると、そこには輪がある。勝利をつかむチャンスのためにその輪を可能な限り強固に保つことが、ロッカールームの全員に対する私の義務だ」
「継続性は素晴らしいことだ。方針を貫き、忍耐強くあることは重要な美徳だ。しかし、時には大きな変革をしなければならないと現実的に認識することにも美徳がある」
コルツは一連の改革後、結果に波があった。ラックの最初の3シーズンでは毎年11勝を記録し、2014年シーズンにはAFCチャンピオンシップゲームまで進出したものの、ラックが肩のケガで欠場した2017年には再び4勝と低迷。ラックの2019年シーズン開幕直前の衝撃的な引退により、チームは先発クオーターバック探しの長い旅に出ることになり、その苦難はチーム結果に如実に表れた。アーセイはベテランフリーエージェント(FA)のフィリップ・リバース、カーソン・ウェンツ、マット・ライアンの獲得に賭けたが、いずれも1シーズンのみの在籍で、プレーオフ進出に導いたのはリバースだけだった(ワイルドカードラウンドで敗退)。2022年のライアン起用は期待外れに終わり、アーセイはシーズン途中にフランク・ライクHCを解任し、さらに不可解な決断として、コルツの元センター(C)ジェフ・サタデーを『ESPN』から引き抜いて指揮官に据えた。サタデーは暫定ヘッドコーチとして1勝7敗の成績を残し、その後また放送業務に戻った。2023年、コルツはシェーン・スタイケンを新ヘッドコーチに迎え、ポストラック時代の苦境からチームを救うことを期待されたQBアンソニー・リチャードソンとともに再出発。しかし3年目を迎えた現在、リチャードソンはフリーエージェントで加入したダニエル・ジョーンズと先発の座を争っている。
アーセイは安定的かつ平穏な組織運営を重視していたが、私生活はしばしば混乱に満ちていた。娯楽目的の薬物使用や依存症との闘いについて率直に語っていたアーセイは、背中や腰の痛みにも悩まされていた。2013年には、33年間連れ添った妻と10年にわたる別居の末に離婚。2014年3月には飲酒運転で逮捕され、最終的に罪を認めた(9年後のインタビューでは、“金持ちの白人億万長者”という理由で偏見を受けたと不満を述べている)。逮捕後には治療施設に入所し、NFLから50万ドルの罰金と6試合の職務停止処分を受け、その間は長女カーリーがチームの運営を担った。後に、逮捕の数日前にアーセイ所有の自宅で、長年交際していた女性が薬物の過剰摂取で亡くなっていたことが明らかになった。
逮捕された後、NFLからの処分を待っていた際に、治療を終えてリーグの行事に戻ってきた心境を尋ねられたアーセイは次のように答えている。
「NFLの一員でいられることは本当に大きな特権で、それを当然のことだと思ってはならない。毎日、大切にすべきものだ」
この一連の出来事によって、アーセイの対外的なイメージは損なわれた。しかし、オーナーたちの間では好感を持たれていた。というのも、アーセイはフットボールの歴史や、自身が10代の頃に父と共にリーグの会議に出席して間近に見た偉大な人物たちに深い敬意を抱いていたからだ。彼の意見はルールブックにも色濃く反映された。プレーオフでニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた後、アーセイはポリアンと共に、ディフェンスのフィジカルなプレーを犠牲にしてでもオフェンス側が有利になるようにルールを厳格に適用するべきだと主張。これは2000年代初頭にパス攻撃の爆発的な発展を促す要因となった。コルツはこの流れの恩恵を確かに受けたが、それはNFL全体も同様だった。
しかし、アーセイがリーグに与えた最も大きな影響は、2022年10月のNFL秋季リーグミーティングでの発言かもしれない。当時、リーグはワシントン・コマンダースのオーナーであるダン・スナイダーやフランチャイズ関係者の行動をめぐる一連の論争や調査、そしてチームのフィールド内外でのパフォーマンス低迷に対応していた。その会議の休憩時間中、アーセイは報道陣に近づき、スナイダーをチームオーナーから外すことをオーナーたちが検討する価値があると述べた。アーセイは他のオーナーやリーグ関係者が内々に囁いていたことを、公の場で初めて声に出した人物となった。この発言はリーグ内に衝撃を与え、スナイダーはすぐにチームを手放すつもりはないと主張。しかし、アーセイの発言から数週間後にはコマンダースの売却が決まり、2023年シーズン開幕時にスナイダーはチームを去っていた。
アーセイは口ひげと後ろに流した髪が白くなってもなお、“破天荒な人物”というイメージをまとっていたが、そのイメージは彼のチーム運営の実態とは異なっていた。アーセイは実際、最初に指導を受けたリーグのベテラン指導者たちの長期的な視点により近いスタイルでフランチャイズを率いていた。チームが成功を収める一方で、アーセイが過去の指導者たちから助言を得られないまますべての決断を下さなければならないことに、どこか物寂しさを感じているように見えることもあった。
アーセイは2012年にニューヨーク・タイムズのインタビューで「若い頃には、あの扉の向こうには白ひげをたくわえた賢者がいて、会いに行けば答えを教えてくれると思っていた」と話し、「しかし、そんな人はいなかった」と続けている。
【RA】