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カウボーイズを“アメリカズチーム”に育て上げるのに貢献したギル・ブラントが逝去、享年91

2023年09月01日(金) 14:56


ギル・ブラント【NFL】

皮肉なことに、ギル・ブラント自身はフットボール選手ではなかった。

現地8月31日(木)に91歳で亡くなったブラントは、ミルウォーキーの高校で体重約68kgのディフェンシブバック(DB)としてプレーしていたが、彼の選手としての日々はそこで終わっている。そのわずか2年後には、ウィスコンシン大学での正式な教育も終了した。

しかし、ブラントはフットボール――より具体的に言えば、優秀なフットボール選手の要素、その評価方法、彼らをロースターに適合させる方法――を熟知していた。そのすべてに精通していたブラントは、1970年代にスーパーボウル制覇を2度成し遂げたダラス・カウボーイズのチームを築きながら、その時代における傑出した才能評価者の1人となっただけではなく、現代のスカウティングと人事評価におけるデータ活用のゴッドファーザー的存在にもなっている。

カウボーイズのオーナーであるジェリー・ジョーンズは木曜日に発表した声明で次のように述べた。「このスポーツの真のアイコンであり、パイオニアであるギル・ブラントの訃報に接し、深い悲しみを覚えています。ギルはダラス・カウボーイズの初期の成功の中核を担い、その後も何十年も、カウボーイズの偉大なアンバサダーとして活躍し続けました。彼はその貢献によってリング・オブ・オナー入りを確実なものにしています。彼は私の友人であり、私だけではなく、ナショナル・フットボール・リーグ全体の、数え切れないほどのエグゼクティブ、コーチ、選手、放送局員にとってのメンターでした」

「彼のこのゲームに対する献身と情熱は、何世代もの殿堂入り選手やコーチに永続的な影響を与えました。彼のように世代を超えた影響を与えることができた人物はほとんどいません」

ダラスで選手人事部門副社長を務めていたブラントの評判は、身長、体重、40ヤード走のタイム、ガールフレンド、食習慣など、すべての選手のことを知り尽くしているというものだった。ブラントはカウボーイズを離れた後も、『NFL.com』のアナリストとして、また『SiriusXM NFL Radio(シリウスXM NFLラジオ)』で、その知識を披露し続けている。スカウト、ジェネラルマネジャー(GM)、コーチ、報道陣など、情報を得たい者は皆、彼に話を聞きにいった。ブラントは確かに多くの情報を持っていたが、何よりも人間関係を大切にしていた。ドラフト可能な選手がいない場合でもコーチを訪ね、選手のことを質問するのを忘れなかった。彼の素晴らしいクリスマスカードは毎年、何百人もの人のもとへと届けられている。

カウボーイズでブラントと共に働いていたNFLの元広報担当重役であるグレッグ・アイエロは「カウボーイズ時代のみんなが好きだった話の1つに、まったく無名の選手の名前が挙がったときに、ギルが“彼の父親はアルバカーキで卵を売っている”と言った、というものがある」と回想している。

アイエロの頭にこの話がよぎったのは、1995年ドラフトの直前にNFLがウェブサイトを立ち上げる準備を進め、アナリストを必要としていたときだった。アイエロはNFLのリーグオフィスの同僚に、ドラフトに詳しい人物を知っていると連絡。それは控えめな表現だったと言えよう。

ブラントは1960年のカウボーイズ創設時から、ジョーンズがチームを買収して自分の部下を雇う1989年までカウボーイズで働いた。その30年の間に、ブラントはトム・ランドリーHC(ヘッドコーチ)、テックス・シュラム球団社長兼GMとともに、クオーターバック(QB)ロジャー・ストーバック、ランニングバック(RB)トニー・ドーセット、ワイドレシーバー(WR)ドリュー・ピアソン、DBメル・レンフロ、その他多くの名選手を擁す “アメリカズチーム”を作り上げた3人組の1人となった。1989年ドラフトの1週間後に解雇された後も、ブラントが選手評価のパイオニアとなったテクニックの多くは、ブラントとカウボーイズが最初にそれを試してから半世紀以上経った今でも、リーグ全体で使われている。スカウティングや評価にコンピューターを使う? それはブラントがやった。小規模校や他のスポーツで有望株を見つける? それをやったのもブラントだ。彼は評価に心理テストを用い、他球団にも広がったスカウティング・システムを開発。さらに、ドラフト前の評価プロセスの中心であり続けているNFLスカウティングコンバインの創設にも貢献した。

ニューイングランド・ペイトリオッツのビル・ベリチックHCは2017年に「ギル・ブラントと彼の人事の仕事を見れば、このゲームへの貢献、人事とスカウティング面での貢献に基づいて、殿堂入りすべき人物であることは間違いない」と語っている。「私が入れるとしたら、まず彼を推すだろうね」

2019年にプロフットボールの殿堂入りを果たしたブラントは、オハイオ州カントンでブロンズの胸像が飾られている他のすべての人物について語ることができたはずだ。スーパーボウルウイークやNFLスカウティングコンバインの期間中に、ブラントとホテルのロビーで数分でも一緒に座っていると、花嫁が長い列をなす参列者に挨拶をするような光景に出くわすことになる――ただし、彼のもとへ来る者は正装ではなくスウェットスーツに身を包んでいるわけだが。

プロフットボールの殿堂のジム・ポーター会長は木曜日に発表した声明で「(ブラントの)スカウティングと選手評価に対する革新的なアプローチは、他チームが見落としていた選手を見つけるのに役立った。その結果、小規模な大学、あるいは大学のバスケットボール部や陸上部から将来、カウボーイズの一員になる選手を発掘することができた」と述べている。

「彼はプロフットボールチームのフロントオフィスにおけるコンピューターの使用を促進したことで評価されているが、真のコンピューターは彼自身の頭の中にあり、そこには信じられないほどの量の情報が蓄積されていた。彼は自分と同じようにフットボールを愛する人たちとそれを共有するのが大好きだった」

ブラントがスカウトの道を歩み始めたのは、殿堂入りした選手――“クレイジー・レッグス”の愛称で親しまれたエルロイ・ハーシュのおかげだった。ウィスコンシンを去った後、ブラントは実家に戻って、地元の病院で看護婦が撮った赤ん坊の写真の販売を開始。ウィスコンシン大学出身で、ロサンゼルス・ラムズのスター選手として活躍したハーシュは、ミルウォーキーで会社を経営しており、ブラントの家族とも面識があった。当時、ラムズのジェネラルマネジャーを務めていたシュラムは、パートタイムのスカウトを雇おうとしていた。ハーシュから推薦を受けたブラントは、1950年代半ばにその仕事に就いている。

2009年、ブラントは『Milwaukee Journal Sentinel(ミルウォーキー・ジャーナル・センチネル)』に「時間はたくさんあったし、彼らは週末に50ドルとかそのくらいで募集していた。その春、マーケットやウィスコンシン、ノースウエスタンを見に行った。当時は誰もそれについてよく分かっていなかったのかもしれない。今のレベルを100とすると、私たちはマイナス10くらいだったんじゃないかな」と述べている。

シュラムは1957年にラムズを去って『CBS』に移ったが、ロサンゼルスで彼の後任となった人物――後のNFLコミッショナー、ピート・ローゼル――はブラントを雇い続けた。数年後、シュラムはブラントに連絡し、ダラスにチームを作るから雇いたいと告げた。資金力のあるオーナー(クリント・マーチソンJr.)のもとで優位性を築くことができたブラントとシュラムは、当時は珍しかったコンピューターも購入。彼らは選手の採点システムを独自に考案し、コンピューターに成績を入力した。その結果、どのクオーターバックが最もメンタル面で優れているかや、どのディフェンシブエンド(DE)が最も速くラインから飛び出せるかなど、コンピューターが情報を素早く分類してくれるおかげで選手の情報はるかに容易に把握できるようになった。

ブラントは殿堂入りする直前に『The Wall Street Journal(ウオール・ストリート・ジャーナル)』に「求めたものは何でも得られた。どれが一番成功する可能性が高いか分かっていたのだ」と語っている。

そこでは、誰もその言葉の意味を知らないうちから“分析”が行われていたのだ。そして、それは他チームがスカウト部門を構築する際のロードマップとなった。ジョーンズがオーナーになると、ブラントはモンタナにある自分の牧場で羽を伸ばしている。1995年、仕事のアイデアを持ったアイエロから電話を受けたブラントは、すべての知識と分析を世に広めた。また、ブラントはプレイボーイ・オールアメリカン・カレッジ・フットボール・チームの選考の中心人物にもなっている。ブラントはチームの意思決定者がドラフト候補生をどのように捉えているかを知り尽くしていたことから、NFLは毎年、誰をドラフトに招待すべきかを決定するのにブラントを頼りにしていた。さらに、ブラントはコラムを書き、ラジオ番組を主催しており、どの記者も彼の連絡先を短縮ダイヤルに登録していた。

1977年ドラフトの前、カウボーイズはチーム内で、ピッツバーグ大学出身のドーセットあるいは南カリフォルニア大学(USC)出身のリッキー・ベルか、どちらのランニングバックを指名するか話し合っていた。カウボーイズのスカウト担当者の1人だったレッド・ヒッキーはベルを希望。他のスカウト担当者はドーセットを欲しがった。カウボーイズはかつて、コンピューターに入力したすべての情報から1冊の本――過去の選手やその選手の特性、NFLでの成功の度合いをまとめた、まさに百科事典のようなもの――を作っていた。それは、カウボーイズが有望株を比較するためのひな型となっていた。そして、彼らのモデルでは、クイックネスが成功の最も重要な決め手であることが示されていた。長い議論の末、ランドリーはブラントに本をチェックし、成功のひな形をベルとドーセットで比較するように頼んでいる。

ブラントはその日のことを「ドーセットがオールプロに選出されるのは確実で、リッキー・ベルが平均以上のスターターになる確率は60%だった」と振り返っている。「レッド・ヒッキーは何て言ったと思う? “マシーンに降参だ”と言ったんだ」

NFLの他チームはブラントの革新に屈することなく、それを模倣し、それ以来ずっと彼の助言を求めてきた。

2022年、ブラントはNFLの元QBドウェイン・ハスキンズが亡くなった後に行った発言について謝罪し、『Twitter(ツイッター)/現X(エックス)』に「ラジオのインタビューで不注意かつ無神経な反応をしてしまった」と投稿。この残念な出来事は、NFLにポジティブな影響を与えることに人生の大半を費やしてきた人物の判断ミスを示すものとなった。

2009年に、ブラントはミルウォーキー・ジャーナル・センチネルに「プロフットボールの発展に貢献した人物として、また、ダラス・カウボーイズが史上最も尊敬されるビジネスの1つになるのに貢献した人物として記憶されたい」と話していた。

【RA】