ジョン・アーシェルの引退にみる脳障害への不安
2017年08月12日(土) 11:10レイブンズがキャンプインして間もない7月27日、センター(C)の新先発有力候補だったジョン・アーシェルが何の前触れもなく引退を宣言した。まだ26歳でNFL4年目のシーズンを迎えようとしていたところだ。
実はこの2、3年で若いNFL選手の引退が相次いでいる。このオフに30歳以下にもかかわらずユニフォームを脱いだ選手はアーシェルで14人目だという。昨年は20人だった。
引退の理由は一つではないが、ほとんどが健康面での不安が起因している。頸椎(けいつい)損傷などでプレー続行を断念せざるを得ない選手もいれば、脳へのダメージが積み重なることへの懸念からフィールドを去るケースもある。アーシェルは後者だ。
アーシェルがヘッドコーチ(HC)のジョン・ハーボウに電話で引退の意思を告げる2日前にはボストン大学が脳に関わる研究結果を発表し、日本でも大きく報道された。その内容はフットボール関係者にとってとても衝撃的なものだった。
フットボールで頭部を故障した経験のある選手の死後の脳を調べたところ、202人中177人に慢性外傷性脳症(CTE)の兆候が見られたという。元NFL選手の検体に限ればその確率は111分の110で実に99%に及ぶ。
もっとも、研究者グループも認めているように、個人の生活習慣にまで調査が及んでいるわけではないので、これらのCTEがすべてフットボールによる負傷が原因だとは結論付けられない。飲酒や薬物使用、日常生活での事故によって引き起こされることもあるからだ。
CTEを患うと記憶障害を起こし、性格が攻撃性を増したり、うつ病になったりすることがある。数年前に自殺したジュニア・セアウもCTEによるうつ病が原因だと言われる。
アーシェルの引退決意にもこの研究結果が大きく影響しているのは間違いない。ただ、彼の場合は将来の脳障害を不安視したのとは少し事情が違うようだ。
アーシェルはNFL生活を終えた後に研究者の道に進む意志を持っていた。オフにはマサチューセッツ工科大学に通い、博士課程を目指していた。専門はスペクトルグラフ理論や数値線形代数といった高度な計算を伴う数学理論だ。
ボストン大学の研究によってフットボールと脳障害との因果関係がより強いことが示されたため、アーシェルが研究者としての将来にフットボールが悪影響を及ぼすことを恐れたことは想像に難くない。彼自身フットボールで頭を強打し、気を失ったことがある。その後は計算能力が落ちたのと自覚があるそうだ。漠然と将来の自分に不安を感じたのではなく、研究者としての進路を阻む可能性があるとしてフットボールを排除するしか選択肢がなかったのだ。
選手は引退した後の方が人生は長い。かつてはレストラン経営など事業家に転じる例が多かったが、最近ではオフの時間をつかって大学時代に修了できなかった学位を取得し、競技生活後の就職活動に備える選手が増えてきた。しかし、アーシェルのようにこうした将来設計までが脳障害への懸念によって閉ざされてしまうのは残念だ。
NFLもフットボール界も手をこまねいているわけではない。脳震盪予防や脳震盪後の対応策は研究が進み、タックル方法も従来とは違って頭部を使わないヘッドアップスタイルの普及活動が進んでいる。地道な活動だが、これを継続していくことでアーシェルのような例をなくしたい。フットボールが危険なスポーツとして認知されていくのはあまりにも悲しい。
いけざわ・ひろし
- 生沢 浩
- 1965年 北海道生まれ
ジャパンタイムズ運動部部長。上智大学でフットボールのプレイ経験がある。『アメリカンフットボールマガジン』、『タッチダウンPro』などに寄稿。NHK衛星放送および日本テレビ系CSチャンネルG+のNFL解説者。著書に『よくわかるアメリカンフットボール』(実業之日本社刊)、訳書に『NFLに学べ フットボール強化書』(ベースボールマガジン社刊)がある。日本人初のPro Football Writers Association of America会員。