チャージャーズからのトレード要求を父親は当初「気に入っていなかった」と明かすイーライ・マニング
2026年05月19日(火) 11:14
NFLの動きが比較的落ち着いているこの時期は、22年前に遡って2004年春の出来事を振り返るのに絶好の機会だ。当時、ミシシッピ大学を卒業したばかりのイーライ・マニングは若きドラフト候補生だった。
当時のマニングにまつわるストーリーは今や周知の事実だ。
ドラフト全体1位指名権を持っていたのはサンディエゴ・チャージャーズ(現ロサンゼルス・チャージャーズ)だったが、トップ指名の最有力候補だったマニングはこのチームでプレーすることを望んでいなかった。最終的にチャージャーズはマニングを指名したものの、全体4位でフィリップ・リバースを指名するためにニューヨーク・ジャイアンツにマニングをトレードした。その後、マニングはジャイアンツで2度のスーパーボウル制覇を達成している。
『Bussin’ With The Boys(バッシン・ウィズ・ザ・ボーイズ)』の最新エピソードで、マニングはサンディエゴでプレーしたくなかった理由を明らかにし、チーム幹部やオーナーの間にすれ違いが見られたことを指摘した。
「当時は、彼らが最も強く勝利にコミットしているチームだと感じられなかった」と語ったマニングはこう続けている。
「マーティ・ショッテンハイマーがヘッドコーチで、彼のことは本当に素晴らしいと思っていたし、敬意も持っていた。ただ、ニューオーリンズでワークアウトを実施してもらったときに・・・その後のディナーでも、ヘッドコーチ、ジェネラルマネジャー(A.J.スミス)、オーナー(スパノス家)の間で衝突があった。みんなが怒鳴り合っていて、ケンカのような感じだった」
「マリオットのレストランにいたんだけど、ショッテンハイマーは怒っていて、“ニューオーリンズにいるのに、マリオットで食事かよ?”という感じで、かなりイライラしていた。彼らは言い合いをしている感じだった。その場では意見の一致がほとんど見られなかったし、優勝できる強豪チームを築き上げることに本気で取り組んでいるようにも見えなかった」
チャージャーズはマニングに拒否されたことをきっかけに勝利への意欲が高まったことに感謝すべきなのかもしれない。マニングに加入を拒否されてから、チャージャーズは6シーズン中5シーズンでプレーオフ進出を果たし、スーパーボウル進出はかなわなかったものの、リバースや殿堂入りを果たしたラダニアン・トムリンソン、アントニオ・ゲイツ、ショーン・メリマンらを筆頭とする素晴らしいチームを構築した。2004年シーズンまでは8年連続でプレーオフ進出を逃していたチャージャーズだが、2017年に本拠地をロサンゼルスに移して以来、4シーズン以上連続でプレーオフ進出を逃したことはなく、ジム・ハーボーが就任してからは2年連続でワイルドカードラウンド進出も果たしている。
マニングがサンディエゴという美しい街でプレーしたくなかった理由としてチーム内の不和が挙げたのは、ある程度知られていたことだった。マニングが今回新たに明かしたのは、その判断を下したのは自分自身であり、父アーチーが介入した結果ではなかったという点だ。
チャージャーズへの入団を断った決断について、マニングは「実際、両親は賛成してくれなかった」と話している。
「父はその考えを気に入っていなかった。事態が動き出した後、父は私を擁護し、支えてくれた。その後、父は多くの批判を一身に受けることになった。“あなたはニューオーリンズでプレーしていたときに勝てなかったのに、息子の行き先までコントロールしようとしている”という声もあった。彼は言いたいことをぐっとこらえて“これはイーライの望みだ。私は彼を支持する”と言ってくれた。メディアへの対応もして、私が批判の矢面に立たないようにしてくれたんだ」
また、マニングはドラフト全体7位指名権を持っていたクリーブランド・ブラウンズも自身の獲得のためにトレードを検討していたが、代理人のトム・コンドンがその案も却下したと明かしている。
最終的には、すべてがマニングの思い通りになり、ジャイアンツで2度スーパーボウルMVPに輝いた。
今回新たに明らかになったのは、父アーチーが息子の決断を支持し、当初はそれに反対していたことを20年以上にわたって口に出さなかったという点だ。それはまさに父親の鑑だと言えよう。
【RA】



































